休みの日に限って電話が鳴る日はなぜあんなに心が折れるのか

休みの日に限って電話が鳴る日はなぜあんなに心が折れるのか

ようやく訪れた休みの日に限って電話が鳴る理由

月に数回しかない貴重な休み。朝、ゆっくり目覚めて「今日は何もしない」と決めたそのタイミングで鳴る携帯の着信音。もう、笑えるくらい毎度おなじみの展開だ。出ないでおこうと思っても、鳴っている間じゅう、頭の中で「急ぎだったらどうしよう」「誰か亡くなったとか?」と不安が駆け巡る。結果、気づけば電話に出てしまう。あの瞬間、自分の中の“休みモード”が崩れ去っていく感覚は、司法書士になってから何年経っても慣れない。

せっかくの休みが一瞬で業務モードに引き戻される瞬間

電話の相手が相談者だったり、不動産会社だったりすると、たとえ「すぐには対応できません」と伝えたとしても、頭の中では業務の段取りが始まってしまう。休みとはいえ、案件の進行状況や相手の状況を咄嗟に思い出し、要点を整理して話さざるを得ない。しかも、せっかくの休みにふと手にしたコーヒーが冷めていくのを見ながら、「はぁ、なんで今日なんだよ」と独りごちる。これはもう職業病に近い。

スマホのバイブが鳴った瞬間の「またか」感

普段から常にスマホを近くに置いているのが癖になっている。休みの日でも、LINEやメールに加えて電話の通知音が鳴るたびに反応してしまう。特に、事務所にかかってくるのではなく、プライベート携帯に直接かかってきたときは「完全に逃げ場がない」という気持ちになる。ちょっとした物音にも敏感になる自分がいて、まるで休日すら監視されているような気分だ。心から休める時間が、どんどん減っているのを実感している。

相手が知らない番号だとさらに気が重くなる

知らない番号からの着信ほど厄介なものはない。出たら出たで営業だったり、見知らぬ相続人からの突発的な問い合わせだったりする可能性がある。出なければ出ないで気になってしまう性格ゆえ、結局調べたり折り返したりしてしまう。電話番号が表示されるたびに「頼むから今日は放っておいてくれ」と祈るのだが、そういう日に限って運は味方してくれない。

心の中の切り替えスイッチはそんなに器用じゃない

よく「気にしなければいいじゃない」と言われるけれど、そう簡単にはいかない。電話が鳴ったという事実だけで、体内の緊張感スイッチが入ってしまう。仕事に関わることかもしれないという想像が止められず、一度スイッチが入ると、もう完全には休みに戻れない。元野球部の時は、試合前日にぐっすり眠れなかったが、それに似たような落ち着かない感じ。だから休みの日でも、どこか常に神経が張っている。

電話一本で崩れる休みの計画

たとえば、昼に映画を観て、夜は近所のスーパー銭湯にでも行こうと決めていた日。そんな日に限って朝イチで電話が来る。内容は緊急ではないが、「来週火曜にお客様同行できませんか?」という類のもの。断ってもいいのだが、その時点で映画の内容が頭に入ってこないし、風呂でリラックスするどころか、翌週の予定をどう調整するかを考えてしまう。自分が“リセットできない性格”だと痛感する。

「なんで今?」というタイミングは本当にある

よりによって「今日だけは休ませてくれ」と思っていた日に限って、ややこしい案件が動き出す。普段は静かな相手が、よりによって休みの日に限って連絡をしてくる。これはもう偶然ではなく、“司法書士あるある”として後輩に語り継ぎたいくらい。時間に縛られない職業のはずが、見えないスケジュールに四六時中縛られているようなものだ。

出ないという選択肢が取れない司法書士の業

電話を無視すればいいだけの話、と割り切れたらどんなに楽だろう。でも、司法書士という立場上、いつかその“無視した電話”が大問題につながる可能性もあるという恐怖がある。信用や信頼が商売道具でもあるからこそ、「対応が遅かった」と思われたくない。結局、出る。出たあとに後悔する。それでも、次もきっと出る。そんな繰り返しだ。

「急ぎかもしれない」という呪いの思考

誰かが困っているかもしれない。そんな想像が先に立ってしまう。特に、相続登記や抵当権抹消のような日程に関わる手続きは、関係者の都合が急に変わることも多い。過去に「放置していたら訴訟寸前だった」というケースを経験してからというもの、なおさら出ざるを得なくなった。そうして自分にかけている“責任”という呪いに、がんじがらめにされている。

結局、気になって折り返してしまう自分

無視したところで、心のどこかに「やっぱり出ておけばよかった」と後悔が残る。だから結局、折り返してしまう。しかも、折り返したときに「もう大丈夫です」と言われると、それはそれで腹が立つのに、「助かりました」と言われると今度は断れなくなる。この、どう転んでも心が疲弊する流れが、毎回のように繰り返されるのだからたまらない。

そして結局、仕事が増えるというオチ

折り返した結果、案件が増える。しかも、元々あった予定を調整して対応する羽目になり、休日明けの自分の首を絞めることになる。最初はたった5分のつもりだったはずが、気づけば関連書類を広げてFAXして、事務員に連絡して、午後に資料を取りに行く段取りまで立てている。どこが休みだったのか、自分でもわからなくなる。

休みでも休めない職業に未来はあるのか

そもそも、こんなにプライベートと仕事が曖昧な生活を続けていて、自分はどこに向かっているのだろうとふと考える。昔は「士業ってかっこいい」と思っていた。だが、今は「誰もやりたがらないのも無理ない」とすら思う。便利屋じゃないのに、いつでも呼び出される存在。そんな自分に疑問を感じつつも、今日もまた電話を取ってしまう。

オンオフの境目があいまいな生活リズム

時間外でも対応するのが当たり前、そんな空気感がこの業界にはある。それが信頼につながっている面もあるが、自分の心身の余裕はどんどん削られていく。カレンダーの“赤い日”がむしろプレッシャーになってきたのは、もうだいぶ前からだ。結婚して家庭を持つ未来も見えず、犬でも飼おうかと真剣に考えたが、世話をする余裕すら怪しい。

土日が関係ない士業の孤独

友人と予定を合わせるのも一苦労。普通の会社員とは休みが合わず、気づけば“人付き合い”の感覚も鈍ってきた。事務員はいても、所長という立場ではなかなか本音も吐けず、気がつくとスマホを片手に孤独な戦いをしている。ちょっとした飲み会や旅行ですら「何かあったらどうしよう」と構えてしまうのが癖になってしまった。

事務員には頼めない司法書士にしかできないことの多さ

優秀な事務員がいても、最終的な責任はすべて司法書士である自分に降りかかる。専門知識を要する判断や、登記の最終チェック、取引の立ち合いなど、事務員には任せられない業務が多すぎる。だからこそ「休めるときに休んでください」と言われても、どこか素直に受け止められない。結局、自分で自分の働き方を縛っているようなものだ。

それでも電話を取ってしまう自分をどうにかしたい

こんな愚痴ばかり書いていても、現実は変わらないことは分かっている。でも、せめて「それ、わかる」と言ってくれる誰かがいれば、少しは救われるのかもしれない。電話を完全に断つことはできなくても、少しでも「これは出なくていい電話かもしれない」と思える日が来るよう、自分の中の“甘え方”を模索している。

優しさが裏目に出る瞬間たち

相手の立場に立って考えてしまう癖は、きっと長所でもある。けれど、それが自分の首を絞めているなら、やはり限界を認めるべきなのかもしれない。優しさが全部自己犠牲に変わる前に、どこかでブレーキを踏みたい。とはいえ、そのブレーキの踏み方が分からないから、また電話が鳴る。

自分で自分の首を締めているような感覚

休日に鳴る電話にすら出てしまうのは、完全に自分の“性分”の問題でもある。誰も責めていないのに、勝手に背負って勝手に疲れている。それに気づいても、やめられない。この堂々巡りのループから抜け出せる日は来るのだろうか。そう思いながら、今日もまたポケットの中で震えるスマホを確認してしまう。

いっそ番号を二つに分けるという選択肢も?

最近、本気で「仕事用と私用で番号を分けようか」と考えている。転送設定や着信制限など、少し工夫すればできることはある。でも、完全に切り離すのは勇気がいる。仕事を失うかもしれないという不安と、休みを取り戻したいという希望。その狭間で揺れながら、「来週こそは本当に休める日が来るだろうか」と曇った空を見上げている。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓