祝われるのはいつも仕事だけ
「おめでとうございます、登記完了しました!」そんな言葉を聞いたのは、つい先日。いや、正確には週に何度かは耳にしている。でもそれが、自分の人生で一番祝われる瞬間になっていることに気づいたとき、なんとも言えない虚しさがこみあげてきた。恋人からの「おめでとう」や家族の「お疲れ様」はもう何年も聞いていない。司法書士という仕事柄、達成感は得られる。けれど、その達成を誰かと分かち合える瞬間は、想像以上に少ないのかもしれない。
登記完了の連絡が唯一の「おめでとう」
日々の仕事のなかで、唯一「おめでとう」と言われるのは、登記の完了を知らせる電話かメールだ。特に法人設立や住宅ローン絡みの登記では、依頼者が本当に嬉しそうにしている。その喜びに触れるたび、「ああ、この仕事をやっててよかったな」と思う。だが、その一方で、自分の人生において「おめでとう」と言われるような出来事が極端に少ないことに気づかされる。結婚式もなければ、記念日を祝う相手もいない。まるで、自分の人生の祝福を他人に委ねているような感覚だ。
案件は片付くのに心は片付かない
日々の案件は、締切と期日があるからこそ終わりが見える。登記も、書類も、やるべきことは明確だ。だが、心のもやもやには期日がない。机の上は整理できても、自分の気持ちは整理できないまま。そんな時、ふと昔の同級生のSNSを覗いては、「ああ、あいつはもう二人目か」とか「家建てたのか」なんて一人ごとをつぶやく。人生に正解なんてないと分かっていても、心のどこかで比較してしまうのが情けない。
祝福の電話はクライアントからだけ
誕生日も、年末年始も、LINEは業者からの一斉送信か、クライアントからの業務連絡だけ。そんななかで、「〇〇さん、登記完了のご連絡ありがとうございます!すごく助かりました!」という一言が、唯一人の温度を感じる言葉になっている。けれど、その言葉のあとに続くのは、「また何かあったらお願いします」という、ビジネスの決まり文句。嬉しいけど、どこか味気ない。そうしてまた今日も、「ありがとう」と「さようなら」を繰り返す。
恋愛より優先される業務の山
この仕事をしていると、スケジュールは常に“案件優先”だ。たとえば誰かとの約束を入れようとしても、「その日は決済が入ってたな」「あの案件の期限が近いな」と、いつのまにか恋愛やプライベートの時間が後回しになってしまう。結果として、気づけば日々の予定表は仕事でぎっしり。恋をする時間がないというよりも、恋の入り込む余地がないのかもしれない。
予定は恋ではなく決済に埋まっていく
昔、ちょっとだけ付き合った女性に「あなた、いつも登記の予定ばかり気にしてるよね」と言われたことがある。反論できなかった。実際、カレンダーには「売買決済」「法務局締切」「委任状受領」など、すべて仕事関連の予定ばかり。週末の空き時間すら、いつクライアントから電話が来るかわからないから、完全には気が抜けない。そりゃ、恋なんて育たないわけだ。
会えそうで会えないのは女性ではなく役所
「次は○○法務局に行く予定です」と事務員に言いながら、ふと「最近、誰かと会う約束なんてしたっけ?」と自問する。思い浮かぶのは役所とクライアントの顔ばかり。気軽に「会いたいね」と言ってくれる人はいないし、自分から誘う元気もない。たまに誰かと会う予定が入っても、当日には「やっぱり業務が立て込んでて…」と断ってしまう。気づけば、人とのつながりが仕事だけになっていた。
土日も書類とにらめっこして終わる現実
世間が「週末はデート」「旅行」なんて浮かれている中、僕の週末はプリンターの音とキーボードの打鍵音だけが鳴り響く。特に繁忙期は、土曜も日曜も関係なく、業務に追われる。たまの休みに出かけようとしても、頭の中には「この案件どうしよう」「書類の返送がまだだな」なんて思考が居座っている。そんなふうにして、恋も趣味も逃してきた。
一人事務所の静寂と喧騒
事務員の彼女がいてくれるだけで、どれだけ救われているか分からない。だが、基本的に会話は業務中心。静かな事務所に、電話のベルとキーボードの音だけが響く。昼休みにたまに雑談できるのが、ほっとする瞬間。でも、その時間も短くて、あっという間にまた現実に引き戻される。笑い声が絶えないようなオフィスに、少しだけ憧れる自分がいる。
会話の相手は事務員とクライアントだけ
誰と話したかを振り返ると、事務員とクライアント、たまに法務局の担当者くらいだ。それ以外の会話は、レジでの「袋いりますか?」といったやりとりくらい。会話はしているのに、どこか孤独だ。自分がしゃべっているというより、業務上の情報を伝達しているだけ。人として、感情を持ってやり取りをする場面が減っていることに気づくと、なんだか胸が詰まる。
雑談が少しだけ心をほぐしてくれる
たまに事務員と交わす雑談が、実は一番大切な時間なのかもしれない。「最近どうですか?」「あそこのパン屋、また行ってきました?」そんな他愛もないやりとりが、自分の中の張り詰めた糸を少し緩めてくれる。笑いあうことがこんなに貴重に感じるのは、普段がそれだけ張り詰めているからだろう。何気ない一言が、どれほどの救いになるか、身をもって実感している。
愚痴をこぼせるのは壁かモニターか
たまに声に出して「なんでこんなにやること多いんだよ」とぼやいてみる。誰に聞かせるでもなく、ただ部屋に響く独り言。それを受け止めてくれるのは、パソコンのモニターか、事務所の白い壁だけ。けれどそれすら、聞いてくれるだけありがたいのかもしれない。感情を吐き出せる場所があるだけで、人はどうにか生きていけるのかもしれない。
元野球部という過去の栄光
高校時代は、坊主頭でグラウンドを駆け回っていた。汗まみれになりながら白球を追いかけ、仲間と一喜一憂していたあの頃。あの頃の自分が、40代半ばで登記の完了ばかり祝われている未来を想像できただろうか。声だけは今でも通る。でも、あの頃のような「声援」は、もう長いこと浴びていない。
声だけは今もデカいけど届かない
クライアントに電話をかけるときの声は、大きくて明瞭だとよく言われる。野球部仕込みの発声は健在。でも、その声が届くのは業務の相手だけ。ふと、誰かに「元気にしてる?」と呼びかけたくなるときがある。でもその声は、誰にも届かず、空中に消えていく。体育会系だった自分の熱量は、今や業務連絡でしか使われていない。
試合後の祝杯と今の祝電の温度差
試合に勝った日の夜は、仲間と居酒屋で声を張り上げて笑っていた。いまの「祝福」は、メールで淡々と届く登記完了の連絡だけ。手応えはあっても、そこに温度がない。あの頃の「乾杯!」の声が、こんなにも遠く感じるとは思っていなかった。勝っても負けても一緒に笑えたあの時間が、今はどこにもない。
グラウンドの汗と書類の疲労感
汗をかく場所が変わっただけかもしれない。グラウンドの土まみれのユニフォームから、今はワイシャツの背中に汗がにじむ日々。体力の消耗という意味では変わらないが、心の消耗は今の方が大きい。勝ち負けのはっきりした世界から、正解が見えにくい日常へ。そんなギャップに、自分がうまく適応できているのか、ふと不安になる。
それでもこの仕事を辞めない理由
文句を言いながらも、この仕事を辞めようとは思っていない。むしろ、気がつけばこの仕事しかしていない。恋より登記完了が先に祝われる人生だけれど、それでも「ありがとう」「助かったよ」と言ってくれる人がいる。それが今の自分にとって、たった一つの支えになっているのだと思う。
喜んでくれる人が確かにいる
華やかじゃなくても、誇れるような恋愛遍歴がなくても、この仕事で誰かが安心してくれる。それだけで、自分の存在意義が少しだけ感じられる。依頼者の「助かりました」「お願いしてよかった」という言葉が、どんな甘い言葉よりも胸に響くときがある。そう思えるうちは、この道を歩き続けようと思える。
感謝の言葉は恋よりあたたかい時もある
「恋より登記が祝われる」なんて、自虐のように聞こえるかもしれない。でも、心からの感謝の言葉を受け取るたびに、「悪くない人生かもしれない」と思うことがある。好きな人には好かれなかったけれど、必要としてくれる人には応えられている。それは、それで、ひとつの幸せの形なのかもしれない。
社会の一部として役に立てている実感
僕が携わる仕事の先に、誰かの生活がある。家を買ったり、事業を始めたり、その一歩に寄り添えている実感がある。派手なスポットライトはないけれど、地面にしっかり根を張っているような充実感がある。孤独で、愚痴も多くて、不器用な人生だけれど、今日もまた誰かの「はじまり」に立ち会えることに、心のどこかで感謝している。