深夜の来訪者
外はしとしとと雨が降っていた。こんな夜に来客とは、よほどの事情があるのだろう。時計の針は午後10時をまわっている。僕は熱い缶コーヒーを握りしめたまま、事務所の扉を開けた。
ドアの隙間から現れたのは、濡れた傘を持つ中年の女性。目元は涙か雨か分からぬ濡れ模様で、しきりに手元の封筒を握りしめている。表情には緊張と、何かを訴えるような迷いが見えた。
「すみません、司法書士の先生……遺言のことで、急ぎでお願いしたいことがあるんです」そう言って差し出された封筒の重さが、この夜の全てを物語っていた。
鍵のかかった相談室
応接室に通し、サトウさんには帰ってもらった。僕とこの依頼人、ふたりきりの空間には重たい沈黙が流れていた。依頼人は慎重に封筒の中身を取り出しながら語り出す。
「この家、実は私の名義じゃないんです。でも、主人の死後、私がずっと面倒を見てきました……登記簿に名前はないけれど、私の人生の半分以上が詰まってるんです」
僕はその言葉を聞いて、登記簿に書かれない「感情たち」の存在に向き合うことになる予感がした。
登記済証と震える手
手渡された書類の束の中には、亡くなった夫名義の登記済証、古い遺言書、そして数枚の家族写真があった。彼女の手は震えていたが、その目は真剣だった。
「この家を、孫の名義に移したいんです。でも、娘とは疎遠で…遺言にも何も書かれていない」
なるほど、これは法律と感情のすき間を縫う案件だ。僕のような司法書士が最も頭を悩ませる種類の依頼だった。
依頼人は誰のために
一見すると単なる遺言執行の相談に見えるが、話を聞くうちに彼女の中に秘められた「贖罪」のようなものが透けて見えた。これは彼女の自己満足なのか、それとも何か後ろ暗い過去を隠すためなのか。
その問いの答えを出すには、もう少し深掘りが必要だった。僕は資料を預かり、調査を始めることにした。
この瞬間から、単なる手続きが「推理」に変わる。
サトウさんの無言の視線
翌朝、サトウさんが出社してきた。手に持つカフェオレを無言で置きながら、ちらと僕の机の上の写真と登記簿を見た。
「依頼人、何か隠してますね」彼女はため息混じりに言った。僕はその洞察に少し驚いたが、同意せざるを得なかった。
彼女の嗅覚は鋭い。伊達に塩対応ではない。
未登記の所有者と感情
登記簿に記載された所有者は故人のまま。相続登記もなされていない。遺言書には娘の名前すら出てこず、内容は十数年前のままだった。
だが調べを進めるうちに、ある行政書士が数年前に「遺言書の書き換え」を手配していた形跡が見つかった。しかし、新しい遺言書は法務局に保管されていない。
誰かが意図的に、それを「隠した」のだ。
家族関係証明書が示すもの
役所で取得した戸籍と住民票から、依頼人には実の娘が一人いることが分かった。その娘は現在東京に住み、あるNPOの理事を務めている。
だが妙なことに、依頼人とは同じ住所に住んでいた時期が一度もなかった。戸籍も別。本当に「実の娘」なのか? 疑問が湧いた。
そこから、思いがけない真実が浮かび上がる。
相続関係説明図に現れた矛盾
形式的には娘とされている人物との関係が、住民票上まったくリンクしていなかった。これは養子縁組を示す記録もない、ただの戸籍上の記載ミスでは説明がつかない。
つまり、「娘」は存在しない。あるいは、存在したが誰かと取り替えられた。
やれやれ、、、サザエさんの家系図でもここまで複雑じゃない。
捨てられた戸籍の抜け殻
古い除籍簿に、かつて存在した「本当の娘」の名前が残っていた。しかしその娘は数年前に事故で亡くなっていた。依頼人はそれを隠し、他人を「娘」として登記しようとしていたのだ。
感情では救われても、法務局はそれを許さない。僕の仕事は、あくまで事実を記録することだ。
「先生、あの子に家だけでも残したいんです」依頼人は泣いていた。
裏口から消えた影
その夜、僕の事務所に忍び込もうとした人物がいた。幸いサトウさんが気づいて追い払ったが、どうやら「娘」本人が書類の差し替えを狙っていたようだ。
彼女も知っていたのだ。自分が登記されるべき人物ではないことを。
法務の世界では、紙の一枚が人生を左右する。
鍵の在処と不審な台帳
事件の核心に近づいたのは、依頼人が昔つけていた家計簿だった。そこには養育費、病院代、そして「示談金」の記録が残っていた。
すべてが偽装だった。家の所有権も、娘の身元も、すべてを偽ってまで守りたかった感情があった。
だが、それは登記できるものではない。
やれやれ僕の推理の出番らしい
最終的に僕は、法務局に事実経過を報告し、遺言の真正な内容を明らかにしたうえで、司法書士として正しい手続きを進めることにした。
「先生、冷たいんですね……」依頼人の言葉に胸が痛んだが、それが僕の仕事だ。
過去の感情に寄り添うのは、推理小説の探偵の役目じゃない。僕らの仕事はただ、証明することだ。
猫の足音と決済書類
夜更け、サトウさんが静かに一言「正解でしたね」と言った。僕は無言で頷きながら、猫が歩くような静けさの中で決済書類に印を押した。
外ではまた、雨が降っていた。
誰が登録免許税を払ったか
奇妙なことに、登記費用が誰かによってすでに振り込まれていた。記名はなかったが、おそらく……「娘」が最後にした贖罪だったのだろう。
登記簿に名前は残らなくても、人の行動は残る。
感情は登記できない
結局のところ、依頼人の願いは叶わなかった。だがそれでよかったのかもしれない。嘘の上に立った名義は、いつか崩れる。
本当に残すべきなのは、登記簿ではなく、心の中にある記憶なのだ。
静かすぎる遺言書
数日後、正しい遺言が法務局で見つかった。それは数年前に依頼人がこっそり提出していたもので、誰の名も書かれていなかった。
「すべては風の中へ」そう走り書きされていた。
記載されなかった最後の言葉
事件は終わった。誰も捕まらず、誰も報われなかった。ただ一つ、登記簿に書かれなかった感情たちだけが、夜の雨に洗われて消えていった。
そして僕は、また別の誰かの「記録されない物語」に向き合う。