心が疲れているのに平気なふりをしてしまう日々

心が疲れているのに平気なふりをしてしまう日々

心が疲れているのに平気なふりをしてしまう日々

心の疲れを見せないことに慣れてしまった理由

「疲れてるの?」と聞かれると、なぜか身構えてしまう自分がいます。別に見下されたわけでも、悪意があるわけでもない。それでも、そう聞かれた瞬間に、自分の中で何かがピリッと反応するのです。たぶんそれは、「弱く見られたくない」という感情なのでしょう。司法書士という職業柄、常にしっかりしている人間でいないと信頼を損ねてしまう。そう思い続けてきた結果、心が疲れていても、それを隠すのが当たり前になってしまいました。

相談できる相手がいない現実

私の事務所は小さな地方の司法書士事務所で、事務員は一人。彼女はとても気が利くし、よく動いてくれる。でもだからこそ、私の個人的な悩みや弱音は吐けない。「先生がそんなことで悩んでどうするんですか」と思われたら…という妄想が頭をよぎるのです。結局、友人に話す機会もほとんどなく、プライベートでも「大丈夫」が口癖になっている。そんな自分をふとした瞬間に客観視すると、なんとも情けなく感じることがあります。

事務所では常に「先生」でいなければならない

この「先生」という肩書きが、案外やっかいなものだと感じています。周囲から頼られ、相談される立場。ときには家族のように、弁護士のように、税理士のように扱われることも。そんなふうに頼りにされるのはありがたい反面、自分の中で「常に完璧でいなければ」というプレッシャーも生まれてくるのです。だからこそ、事務所の中では感情を出さないようにしてしまう。どんなに疲れていても、笑って「お疲れさま」と言うのが習慣になってしまった気がします。

愚痴を吐く場所すらスケジュールにない

愚痴って、本当は誰にでも必要なものだと思うんです。だけど、私の毎日はとにかく時間に追われていて、気づけば愚痴る暇すらありません。たまの休日には雑務が山積みで、気晴らしに出かける気力も残っていない。そんな日々の繰り返しで、愚痴をこぼす余裕がそもそもなくなっている。だからと言って、無理に飲みに出かけて誰かに話すのも気が重い。結果として、心の疲れは溜まる一方で、表には一切出さずに「平気なふり」を続けてしまっているのです。

一人で抱え込む日常がじわじわと蝕んでくる

誰にも気づかれず、何も話さず、ただ毎日仕事をこなしていく。それは表向きには「頑張ってる」ように見えるかもしれませんが、実際には精神的な摩耗が積もり積もっていく状態です。司法書士という仕事は、一つのミスも許されない慎重さが求められます。それだけに、心が疲れているときこそ危険。でも、「疲れてる」と口に出すのが怖くて、今日もまた何もなかったかのように机に向かってしまうのです。

土日も電話が鳴るというストレス

この職業において、「定休日」という感覚は希薄です。不動産の決済や、急な相談ごとは曜日を問わずやってきます。特に地方では「土日にやってくれるから助かる」と言われることもしばしば。もちろん感謝されるのは嬉しい。でもその裏で、私の体と心はどんどん擦り減っていく。友人と野球観戦に行く予定を何度キャンセルしたか分かりません。「自営業なんだから仕方ない」と言い聞かせつつ、着信音にビクッとする自分が、少しだけ嫌になったりもします。

「暇なんじゃない?」という一言の破壊力

一番グサッとくるのは、何気ない一言です。「え、司法書士さんって暇そうじゃない?」なんて言われると、思わず笑ってごまかしますが、内心はズタズタです。毎日ぎゅうぎゅうのスケジュールで、昼ごはんを抜くこともあるのに、外から見ると「のんびり仕事してる人」に見えるんでしょうね。それが現実とのギャップを生んで、自分の努力が否定されたような気分になる。こういう小さなダメージが、じわじわと心に蓄積されていくのです。

元野球部の根性が空回りする瞬間

学生時代は野球一筋でした。根性論で乗り切るのが当たり前で、どんなに辛くても「気合いだ」で通してきました。でも、社会に出てからは違います。体力と根性だけではどうにもならないことが多すぎる。司法書士の仕事は繊細で、根性だけで乗り越えられる局面はそう多くありません。それでも、昔の習慣が抜けきらず、つい無理をしてしまう。心がすり減っていても、「まだいける」と自分に言い聞かせてしまうのです。

負けたくないけど逃げ場がない

根性で頑張る癖がついてしまっていると、誰にも頼れなくなってしまいます。「逃げるのは負けだ」と思ってしまうのです。私にとって司法書士としてのキャリアは、まさに自分の誇り。でも、その誇りに押し潰されそうになることもある。頑張り続けることが正義だと信じてきたけれど、ふとした瞬間に「これって本当に正しいのか?」と立ち止まりたくなる。だけど、立ち止まることすら許せない自分がいる。それがまた、苦しいのです。

頑張ることが癖になっているだけかもしれない

正直、「頑張る」こと自体が目的になっている気がするときがあります。もう誰も私に無理してほしいなんて言ってないのに、自分が勝手に追い込んでいる。休むことに罪悪感を覚え、息抜きすら仕事に結びつけようとしてしまう。もしかしたら、心のどこかで「疲れてる」と認めてしまったら、崩れてしまう気がしているのかもしれません。それくらい、平気なふりが習慣になってしまった。そしてそれが、じわじわと自分を壊している気がします。

優しさが仇になる司法書士の孤独

司法書士という仕事をしていると、自然と人の事情や弱さに触れることが増えます。だからこそ、こちらも優しくありたいと思う。でもその優しさが、かえって自分を追い込むことになるのです。相手の立場を思いやりすぎて、自分の時間を削ってでも対応してしまう。誰かの「助かった」のために、こっちの心が擦り切れていく。そんな構図に、どこかで気づいているのに、止められない。それが孤独という形で、じわじわと重くのしかかってきます。

事務員の前では強くいないとと思ってしまう

私にとって、唯一の事務員はとても頼りになる存在です。でも、だからこそ、弱いところは見せられないと思ってしまう。ミスや不安を見せたら、不信感を抱かれるかもしれないと勝手に考えてしまうのです。本当は一緒に支え合える関係でありたいはずなのに、どこかで「守らなければ」という意識が強くなりすぎている。気づけば、自分で自分に壁を作ってしまっていることに、最近ようやく気づき始めました。

気遣いが自分をすり減らすこともある

「こう言ったら気を悪くするかも」「これはお願いしないほうがいいかも」——そんなことを考えながら人と接していると、自分の言いたいことがどんどん言えなくなっていきます。司法書士という職業柄、人間関係には細心の注意を払います。でも、気を遣いすぎて、いつのまにか自分の感情がどこかへいってしまう。相手にとってはいい先生だったとしても、自分にとってはどんどんしんどい存在になっていくのです。

「疲れてる」と言えた日のことを思い出す

数ヶ月前、珍しく「疲れました」と口に出したことがありました。いつもなら絶対に言わないような一言。でも、その日だけはどうにも堪えきれなかったんです。すると、事務員が「ですよね」と笑いながらお茶を出してくれた。その瞬間、なんだか涙が出そうになったのを覚えています。結局、人は言葉にしないと伝わらない。でも、言えば意外と受け止めてもらえる。そんな小さな経験が、今もどこかで自分を支えてくれています。

たった一言が心を軽くした経験

「疲れました」——たった五文字のその言葉を言うことが、あんなに怖かったのは何だったんでしょう。でも言ってみれば、誰も私を責めたりはしなかった。それどころか、むしろ距離が近づいたような感覚すらありました。無理に強くいようとしなくてもいい。そう思えたのは、たった一言のおかげです。それ以来、無理なときは少しだけ素直になろうと心がけています。それだけで、随分と生きやすくなりました。

共感してもらえるだけで十分なときもある

助言なんていらない。ただ「わかるよ」と言ってくれるだけで救われる。そんな瞬間ってありますよね。司法書士という仕事は理詰めの世界ですが、だからこそ感情のやりとりがありがたく感じる。たった数秒の共感だけで、一日頑張れることもある。そういう小さなぬくもりを大事にしたい。心が疲れていても、それを少し見せてもいい。そんなふうに思えることが、何よりの救いになるのかもしれません。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓