四六時中先生でい続けるというしんどさ
「先生」と呼ばれる職業は、外から見れば立派で信頼される存在に見えるのかもしれない。だが実際には、どこにいても「先生」であることを求められ、自分という人間が輪郭を失っていくような感覚になる。私は司法書士として地方で事務所を構えているが、スーパーで買い物をしていても、診察待ちで病院にいても、「先生」としての対応を無意識に求められてしまう。人と接する以上、無礼があってはいけない、常に落ち着いた態度を保たなければならない。そんな「無意識の緊張」が、日々の生活にじわじわと染み込んでいるのだ。
名前じゃなく肩書きで呼ばれる日常
肩書きで呼ばれることに慣れると、逆に誰かに名前を呼ばれたときの温かさに驚くことがある。最近、近所の子どもが「○○のおじさん」と名前を混ぜて呼んでくれたとき、心が一瞬ほぐれた。名前には自分自身がいるが、「先生」という呼び名には社会的な役割しか存在しない。私は45歳、独身で、日常の会話もほとんど仕事絡み。たまに「先生」と呼ばれない場所に出かけても、「司法書士なんですか?」と職業に引き戻される。逃れたくても逃れられない。そんな日々が続いている。
スーパーでも病院でも逃げ場がない
近所に住むということは、顧客とも日常を共有するということでもある。スーパーで見かけられれば「あの登記、どうなりました?」と声をかけられ、病院の待合室では「相続の件でまた相談いいですか?」と資料を取り出される。もちろんありがたいことではあるのだが、正直に言えば、無防備な自分を見せられる場所が一つもないという現実に疲れてしまう。心の休まる空間が見つからないことは、思っている以上に大きなストレスになる。
先生って呼ばれると得でしょの誤解
たまに「先生って呼ばれてると楽そう」「信用されて羨ましい」と言われることがある。でも実際には、期待に応え続けるプレッシャーと、自分を抑え込む感覚が常につきまとう。人前ではミスは許されない、少しでも不機嫌に見えると「怖い先生」と言われる。得どころか、役を演じ続けることの疲労感の方が遥かに大きい。誰かの期待に応えることでしか存在を許されない。そんな日々の中で、自分を肯定するのが難しくなってくる。
感情を抑えることに慣れすぎた日々
「先生」として求められる理性的な振る舞いに、感情の起伏は許されない。嬉しくても表には出さない、悲しくても表情を崩さない。そんな「良識ある対応」が染みついてしまったせいで、時折、自分が感情を持っているのか不安になるときがある。プライベートでも、感情表現がぎこちなくなってしまったように感じるのだ。昔の友人と会っても、「なんか冷たくなったな」と言われる始末。いや、冷たくなったんじゃなくて、表に出すことを忘れたんだと思う。
怒りも弱音も先生としては封印
理不尽なことがあっても、「大人の対応」が求められる。書類が間違っていても、連絡が滞っても、怒りの感情を直接ぶつけることはできない。「先生なんだから落ち着いて」と、自分に言い聞かせて押し殺す。でも、その積み重ねは確実に心のどこかを蝕んでいる。たまに、夜のコンビニで見かける高校生の方がよっぽど感情に正直で羨ましくなることがある。何かを訴える表情を、もう忘れてしまった気さえする。
優しく見えるだけで心は擦り減っている
「先生はいつも穏やかで安心します」と言われると、ありがたい反面、なんとも言えない苦しさを感じる。自分の心の内では、どうしようもない苛立ちや孤独感が渦巻いているのに、それを見せることは許されない。「先生」は弱音を吐いてはいけない存在だから。だけど、内心では「誰かに甘えたい」「素の自分を見てほしい」と願っている。そんな自分を誰にも見せられずに、今日もまた「優しい先生」として仕事をこなす。
本当の自分が誰なのか分からなくなる瞬間
日々「先生」として振る舞い続けていると、ふとした瞬間に「本当の自分って誰なんだっけ?」とわからなくなることがある。誰かの相談に乗ることが自分の役割であり、感情は邪魔なノイズとして処理してきた結果、自分の思いにフタをする癖がついてしまった。本来の自分の欲求や願いが、どこかに置き去りにされている。たまにそれが顔を出すとき、罪悪感さえ覚える自分がいる。
オフの日でも仕事脳が抜けない
カレンダー上は休みの日でも、心は完全に休めていない。携帯に着信が入るたびに「何かトラブルか」と身構えてしまうし、メールの通知を見るだけで胃がキリキリする。これでは「休み」とは言えない。事務員には「今日はお休みくださいね」と言っておきながら、自分の心はいつも仕事モード。布団に入っても、頭の中では登記の段取りを考えている始末。そんな自分に、何度も嫌気がさす。
電話が鳴るだけで気持ちが萎える
夕飯を作ろうと思った矢先、電話が鳴る。「○○の件なんですけど…」と声が聞こえた瞬間、リラックスしかけた心が一気に仕事モードへと引き戻される。これが積み重なると、電話の着信音すら怖くなる。着信拒否にしたくても、仕事柄それはできない。気が休まらない生活が、数年単位で続いている。「誰にも連絡されない時間」が、どれほど貴重かを痛感している。
手帳の予定が空でも気持ちは休めない
手帳に何も予定が書かれていない日でも、気が抜けない。「急ぎの依頼が入るかも」「書類の戻りが遅れたらどうしよう」と、常に次の一手を考えてしまう。本来なら心身を休める時間のはずなのに、心のどこかが常に緊張していて、完全にオフになることができない。結局、空いた時間を活かして趣味を楽しむ余裕もなく、なんとなく一日が終わってしまう。こんな生活をいつまで続けるのか、時々不安になる。
司法書士ですの自己紹介が重たい
新しく誰かと出会ったとき、「お仕事は?」と聞かれると正直に「司法書士です」と答える。でもその瞬間、相手の態度が変わることがよくある。急にかしこまったり、距離を取られたり、「相談してもいいですか?」と仕事の話に切り替えられたりする。「司法書士」という肩書きは、確かに信用されるが、それ以上に人間関係のフィルターになっている気がする。本音を言えば、ただの人として会話したいだけなのに。
職業を語るだけで相手の態度が変わる
「司法書士なんてすごいですね」と言われると、一見褒められているようで、実際は壁を感じることが多い。相手がこちらを「何でも知ってる人」と思っているのが伝わってくるし、会話の温度が変わるのを肌で感じる。逆に、本当の自分について話そうとすると、「先生らしくないですね」と言われる始末。私は「先生」以前に、ひとりの人間として見てほしい。それがなかなか叶わないのが、肩書きの重さなのだ。
ただの人として関わりたい願い
「先生」として扱われない時間、それは私にとって唯一の「呼吸の時間」だ。誰かと缶コーヒーを飲みながら、仕事の話を一切しない会話ができたらどれだけ楽だろう。最近は、趣味の野球中継を観る時間だけが、唯一「肩書きを脱いだ自分」に戻れる時間になっている。人はきっと、誰かに役割でなく「そのままの自分」として接してもらうことに救われる。私もまた、その救いを渇望しているのだ。