登記簿の端に浮かぶ赤い線
古びたファイルを開くと、登記簿謄本のコピーに妙な赤い線が引かれていた。まるで誰かが意図的に境界を塗り替えようとしているような、そんな不自然さがあった。線は境界線をなぞるようでありながら、わずかに曲がっている。
「これは……おかしいですね」とサトウさんが低くつぶやいた。その目は冷たく光っていた。ぼくは一瞬たじろいだ。彼女の冷静な指摘は、毎度のことながら胸に刺さる。
赤い線の存在に気づいたのは、今朝、依頼者が持参した一枚のコピーからだった。だが、なぜそんなものがあるのか、依頼者自身は説明できなかった。
午前十時の依頼者
依頼人の田上という男は、農作業帰りのままの服装で現れた。泥のついた長靴と、ねじれた麦わら帽子が妙に印象的だった。彼は自分の土地の登記に違和感があると言って、謄本のコピーを差し出してきた。
「昔の境界と違う気がするんです。お隣さんが…勝手に広げたんじゃないかと」 そんな不安げな目を向けられてしまっては、こちらも無視できない。いや、無視したいのだが。
やれやれ、、、また厄介な案件の匂いがする。どこかで聞いたセリフだが、これは現実だ。
朱線が示す違和感
サトウさんは拡大コピーした図面と現地の写真を並べ、細かく赤線のズレを指摘し始めた。境界線は公図ではまっすぐなのに、赤線は微妙に斜めに逸れている。しかも、ズレているのは田上さんの敷地側だ。
「これ、筆界を意図的に変えようとしてるんじゃ?」 サトウさんの言葉に、ぼくは一瞬、耳を疑った。そんな大それたことを、誰が、どうやって?
だが、その疑念は次第に確信へと変わっていった。ある痕跡がそれを物語っていた。
境界線上の不信感
その境界線の先には、古い農機具が無造作に積まれていた。となりの土地の持ち主は、田上さんの遠縁にあたる相良という男。ここ数年、顔も合わせていないという。
「相良さん、昔からそういうの得意だったのよ」 田上さんの奥さんがぽつりと漏らした言葉が、妙に引っかかった。そういうの、というのは、つまり、、、
測量を誤魔化したり、書類の線を引き直したり、そんな姑息な技だ。
「確かに昔は道だった」
地元の古老に話を聞くと、赤線のあたりは昔、細い私道だったという証言が出てきた。それがいつの間にかなくなり、二つの土地に吸収されたという。
「いやあ、相良のじいさんがな、昔から測量士と親しくてなあ…」 耳を疑うような話ばかり出てくる。この地域の慣習と、地元人脈の濃さが、逆にぼくたちの調査の邪魔をしてくる。
一筋縄ではいかない。まるで、怪盗キッドに煙玉を投げられたような気分だ。
謄本と公図のズレ
法務局で原本を確認すると、公図はまっすぐだったが、確かに謄本コピーには赤線が写っていた。つまり、誰かがコピーに細工した可能性があるということ。
「いやいや、まさか誰かが赤ペンで線を引いたってわけじゃ…」と口にしかけて、ぼくは黙った。サトウさんが、にやりとした気がした。
「印刷機、持ってますよね。相良さん」 サトウさんが言った瞬間、謎のピースが一気に揃った。
真っ赤な修正液の跡
田上さんが持参したコピーの裏面には、微かににじんだ赤のインク痕が残っていた。それはまるで、赤ペンで線を引いて乾く前にコピーしたような痕。
つまりこれは、改ざんされた登記コピー。しかも、その赤線をあたかも本物の境界のように見せかけるために使われたもの。
ぼくは怒りよりも、呆れの感情が強かった。まだこんなアナログな手でやるのかと。
机の上に残されたファイル
相良の自宅を訪ねると、不在だったが書斎の窓から机が見えた。そこには、まさに件の登記簿コピーと酷似した資料が無造作に置かれていた。
それはまるで、「ほら、証拠だよ」と言わんばかりに。いや、あれは見せる用のダミーか? それとも、うっかり?
「やれやれ、、、やる気があるのか、ないのか」 ぼくは窓越しにため息をついた。
共有名義のはずが単独名義
実は、謄本の筆界変更を裏付けるもう一つの証拠があった。それは、共有名義だった土地の一部が、いつの間にか単独名義になっていたことだ。
これは、何者かが勝手に登記を申請した形跡か、それとも他人のハンコを使ったのか。いずれにせよ、法的に問題だらけだ。
「偽造の可能性もありますね」 サトウさんの言葉に、ぼくの背筋が冷えた。
土地家屋調査士の証言
過去の測量を担当した調査士に連絡をとると、現地の境界杭が打たれた際の記録が残っているとのことだった。
彼の証言によれば、赤線とは逆の位置に杭が打たれていた。つまり、田上さんの主張のほうが正しい可能性が高い。
この時点で、ぼくたちは確信をもって調査報告書をまとめに入った。
十年前の測量と境界杭
古い写真には、錆びた境界杭が確かに写っていた。その位置は、今の赤線とは明らかに異なる。 写真の奥には、若き日の相良の姿もあった。なんとも皮肉な証拠だ。
「過去は、消せませんね」 サトウさんがぽつりとつぶやいた。
なぜか焼失した測量図
奇妙なことに、十年前の測量図原本は調査士の事務所で焼失していたという。原因は不明。だが、バックアップのPDFが役所に提出されていた。
間一髪のところで救われた形だ。まるで、ルパンに盗まれる直前にルーム警報が鳴ったような感覚だった。
赤線の犯人
相良は、不動産を広げようとしていた。勝手に土地を自分名義にし、将来的に分筆して売却する計画だったという。
そのために、赤い線を「既成事実」にしようとしていたのだ。だが、そこに現れたのが、うっかり者の司法書士だったというわけだ。
紙一枚に隠された意思
ぼくは、登記簿の写しを手に取り、深くため息をついた。 こんな紙切れ一枚で、人の境界も人生も揺らいでしまうのだ。
だが、だからこそ、司法書士の仕事は重い。責任と誠実の境界線を越えてはいけない。
「境界を動かしたのは…」
調停の場で、証拠を提示すると相良は観念した。「ちょっと線を変えるだけで、得になると思ったんだよ」とつぶやいた。
その声は、どこか滑稽で、どこか哀れだった。ぼくは何も言わず、ただ記録に残すだけだった。
決着とその代償
結果、土地の所有権は修正され、田上さんの名誉も守られた。相良には厳重注意と過料処分が課された。
登記簿の赤い線は、法務局に正式な訂正申請が出されて消されることになった。
調停室での逆転劇
静まり返る調停室で、サトウさんが小声で言った。「先生、今日のヒットですね」
元野球部の血が騒いだわけではない。ただ、紙と線と人の心を読み抜いた。それだけのことだ。
依頼人が残した最後の言葉
「信じてよかったです、先生」 その一言が、ぼくの背中をじんわりと温めた。
…でも、どうせなら女性の依頼人にそう言われたかったなあ。 やれやれ、、、また次の案件が待っている。