休みの日なのに心が休まらない
せっかくの休日。だけど、朝起きても誰とも話す予定はない。誰からの連絡もない。仕事のストレスからは解放されているはずなのに、心のどこかがそわそわして落ち着かない。普段は依頼者とのやり取りや事務員とのやりとりで気を張っているけれど、いざ完全な“無音”の時間に放り込まれると、自分が社会から浮いているような、そんな感覚に包まれてしまう。自由なはずの休日が、閉ざされた部屋での監禁にさえ感じるのは、疲れているせいなのか、それとも何かが欠けているのか。
誰とも会わない静寂の一日
「休みの日くらい、ゆっくりできていいじゃないか」そう思う自分と、「また誰とも喋らずに一日が終わるのか」と落ち込む自分が同居する。昔は誰かしらと出かけたり、飲みに行ったりしていたはずなのに、今はスマホすらほとんど触らない。誰かにLINEを送ることもないし、電話の着信音も鳴らない。静かというより、無音。物音すらしない空間で、ただ時間だけが過ぎていく。
朝の目覚めと部屋の静けさ
目覚ましもかけず、自然に目が覚める。けれど、天井をぼーっと見つめている時間が長くなる。カーテンを開けても、部屋の空気は重たいまま。冷蔵庫を開ける気力もない。せめてテレビをつけようとリモコンを手に取るが、特に観たい番組もない。結局、無音のまま顔も洗わず、ぼんやりとベッドに座っている。
昼はコンビニ飯か昨日の残り物
自炊なんてもう何日してないだろう。平日は帰りが遅いし、休みの日は動きたくない。近くのコンビニで弁当を買って帰るか、昨日の夜に食べきれなかったカップ麺の残りをすするか。それでも、食べるという行為が一つの「生きてる証」みたいに感じてしまうのが、我ながらちょっと悲しい。誰かと一緒に食事することなんて、いつぶりだったか思い出せない。
テレビの音だけが部屋を満たす
誰かの声が聞きたくてテレビをつける。バラエティ番組が元気に盛り上がっているけれど、そのテンションが逆にきつい。ニュース番組に切り替えても、事件や災害の話ばかり。結局、YouTubeで野球のダイジェストを無音再生。自分の声も出さず、ただ映像だけが部屋に流れていく。静寂のなかで、少しだけ「声を出したいな」と思っても、話しかける相手がいない。
本当は誰かと話したい気持ち
一人が好きだと思っていた。でも、それは“誰かと関わる元気が残っていない”だけだったのかもしれない。誰とも話さない休日が続くと、自分がだんだん薄くなっていくような錯覚を覚える。司法書士という仕事柄、普段はクライアントや関係先とのやり取りで言葉をたくさん使っている。でも、それは仕事上のやり取り。心の底から「おはよう」や「ありがとう」を言える相手がいない。
寂しさに気づいてもどうにもならない
ふとした瞬間に、寂しさに気づいてしまう。たとえば、カレンダーに何の予定も書かれていない日曜日。たとえば、コンビニのレジで「温めますか?」とだけ聞かれて終わる会話。人恋しい気持ちはあるのに、それをどうしていいか分からない。マッチングアプリも、もうやめた。最初の一通すら続かない。誰かと繋がりたいけど、繋がる元気もない。
電話の履歴には仕事の番号ばかり
スマホの履歴をスクロールしても、並んでいるのは「〇〇法務局」「△△不動産」「××銀行」など仕事関係ばかり。プライベートな連絡なんてここ数週間は皆無だ。着信履歴が無い日は平和なはずなのに、どこか心がざわつく。誰かに必要とされていない気がして、自分の存在意義まで問いかけてしまう。
LINEも通知は求人とメルマガだけ
LINEの通知音が鳴っても、大抵は登録した求人サイトか、過去に使ったアプリのプロモーション。「今日は誰かから連絡あるかな」なんて思っても、現実は冷たい。既読もつかないまま放置されたままのメッセージを見ると、逆にもう開く気も失せてくる。「返事がこない=もう繋がっていない」それを自分に言い聞かせる。
返信を待つ相手もいない
昔は、夜寝る前にスマホを眺めて「誰かから連絡あるかな」と期待していた。でも今は、通知がない方がむしろ気が楽に感じる。誰もいないから、誰からも否定されない。でもそれは“安心”じゃなくて“あきらめ”だ。返信を待つ相手がいないという現実は、静かに、でも確実に心を冷やしていく。
司法書士としての責任と孤独
忙しい日々の中では気づかなかった。でも、こうして静かな休日を過ごすと、「自分は誰のために働いているのか」と自問してしまう。誰かの役に立っていることは嬉しい。でも、誰かと喜びや悲しみを共有できているわけではない。独りで請け負い、独りで背負っている。責任を果たせば果たすほど、逆に孤独が深まっていく。
忙しさに紛れてごまかしてきた心
平日はやることが多すぎて、感情なんて後回し。でも、休日になるとそのツケが一気に返ってくる。やりたいことも、行きたい場所も、誰かと過ごしたい気持ちもある。でも、もう「誘う勇気」も「断られる覚悟」も持てなくなってしまった。だからこそ、仕事に逃げる。忙しいふりをして、自分の寂しさをごまかしているのかもしれない。
事務員との会話が唯一の対話
一緒に働いている事務員さんとの会話が、ある意味で唯一の「人とのつながり」かもしれない。もちろん業務上の話が中心だけれど、「お疲れ様です」「今日は暑いですね」そんな一言が心に染みる。たった数十秒のやり取りでも、「自分はここにいる」と実感できる。
でも仕事終わりは一人に戻る
夕方、事務員さんが「お先に失礼します」と帰った後の事務所は、また無音に戻る。誰もいない空間に、書類とパソコンの音だけが響く。誰とも話さない夜が再び始まり、誰かと話したい気持ちを押し殺して、帰り道を一人で歩く。仕事の成果はあっても、心に残るのは“空虚さ”ばかり。
元野球部だったころの自分を思い出す
中学も高校も、ずっと野球漬けの日々だった。グラウンドで叫び、ベンチで笑い合い、汗まみれの仲間たちと一緒に過ごした。あの頃は、誰かと一緒にいるのが当たり前だった。勝っても負けても、仲間と共有する時間があった。今は、それがまるで遠い記憶のように思える。
仲間と笑って過ごした時間
試合後の反省会や、帰り道のコンビニでのアイス。そんな小さなことが、今となってはものすごく贅沢だった気がする。何も考えずに笑える相手がいること、くだらない話が尽きない関係性。あの頃の自分に「将来は誰とも話さずに休日を過ごすようになるよ」なんて言ったら、きっと驚くだろう。
今の自分に足りないもの
社会的な肩書きや仕事の実績は少しは積み重なったけれど、心の中にある“何か”はずっと空っぽのままだ。それが何かはわからない。でも、誰かと気軽に笑い合える日常があれば、それだけでだいぶ違う気がする。仕事では埋まらないものが、人生にはある。
それでもまた仕事に戻る月曜日
そしてまた月曜日が来る。机に向かって、書類を整え、登記の準備をする。誰とも話さなかった週末のことは、まるで夢だったかのように、日常の波に飲み込まれていく。「また頑張るか」と心でつぶやく。誰にも聞かれない小さな声で。
誰かの役に立っているという小さな誇り
依頼者からの「ありがとうございました」その一言に、救われる時がある。誰とも話さなかった休日も、誰かのために働けているという実感が、かろうじて自分を支えてくれている。たとえ独りでも、司法書士としての仕事には、意味があると信じたい。
孤独でも司法書士である意味
寂しさもある、愚痴もある、それでも司法書士という仕事が自分を形づくっている。話す相手がいない日があっても、それは自分が“頑張っている証”でもある。声を出さなかった休日も、きっと無駄じゃない。そう信じながら、また次の週を迎える。