依頼人はなぜ泣いていたのか
登記相談のはずが涙の理由は別にあった
朝一番の来客は、ややくたびれたスーツを着た中年の女性だった。口数が少なく、話を切り出すまでに数分かかった。依頼は「名義の整理」だと言ったが、その目の奥に沈んだ涙の理由は、どう考えても不動産の話ではなさそうだった。
「名義の整理」とは便利な言葉だ。離婚、相続、贈与――感情の清算を登記簿で済ませようとする時、人はよくその言葉を使う。だが、本当に必要なのは、書類よりも対話なのだろう。
そして、話を進めるにつれ、彼女の言う「名義」が三人分あることがわかってくる。
名義が三人分ある家とは
依頼された不動産は、郊外の築古の一戸建て。土地と建物の登記簿を確認すると、所有者として三名が登記されていた。彼女自身と、元夫、そしてもう一人の男。
「どちらの方ですか? この方は…」と僕が聞くと、彼女は答えに詰まり、口をつぐんだ。「その人はもう、いません」とだけ言った。死亡か、失踪か、それとも――。
サトウさんが、少しだけ眉をひそめて画面を見つめた。彼女の沈黙は、なにより雄弁だった。
元夫か恋人かそれとも他人か
同じ住所に名を連ねる三者の関係性
「三人でこの家を買われたのですか?」と尋ねると、依頼人は首を横に振った。「最初は二人だった。でも、後から……」と言葉を濁す。なるほど、共同名義の追加登記だ。
元夫との共有名義で購入した家に、数年後、第三者を追加。登記記録からはその順番がはっきりと読み取れる。だが、それが意味するのは「関係性の変化」だ。
それはまるで、サザエさん一家にいきなり謎の登場人物が増えたような違和感だ。タマに似た猫が二匹いるような、不自然な均衡。
登記簿は嘘をつかない だが感情は別だ
登記簿に刻まれた名前や日付は、誰にも改ざんできない。しかし、そこに記されていない感情の機微までは読み取れない。名義の追加にどんな想いが込められていたか、登記官にはわからない。
だが、僕には少しずつ見えてきた。誰かを信じ、誰かを裏切り、そして誰かを失った、その道のりが。
シンドウ、登記の向こうに人間ドラマあり――そんな標語でも掲げようかと思った。
不自然な委任状と空白の時間
筆跡が揃いすぎていることへの違和感
提出された委任状をサトウさんが見て、一言。「これ、全部同じ人が書いたんじゃないですか?」僕も確認すると、確かに署名の筆圧やクセが似通っていた。しかも、微妙に古いフォントのプリンター出力。
本来、各名義人が別々に書くべき書類。それが全部、同じ手で「整えられて」いるように見えた。完璧すぎる整合性は、逆に怪しい。
やれやれ、、、また厄介なことになってきた。
サトウさんが気付いた「未記入の署名欄」
さらにサトウさんが見つけたのは、一通の委任状にだけ残されていた「未記入の署名欄」。しかも、その人物こそ「すでに亡くなっている」とされた三人目の名義人だった。
亡くなっているなら署名できるはずがない。だが、もし生きているのなら? 委任状は宙に浮き、事件の全体像も一変する。
サトウさんは静かに「まだ終わってないですね」と言い残して席を立った。どうやらこの事務所の探偵役は、僕ではないらしい。
やれやれ、、、名義は人の心を写さない
所有権移転の裏にある愛憎劇
調査を続けるうちに、第三の男が「元夫の弟」であり、依頼人との関係が深まったことがわかった。家を共有するというより、感情を共有しようとした名義だった。
しかし、元夫との関係が冷え切らぬうちにその関係が始まったため、名義は三つ巴の泥沼を形成した。そして、それが終わりを迎えたとき、登記簿には泥の跡だけが残った。
僕はそっとファイルを閉じた。人の心の整理は、書類だけでは済まない。
自宅の裏手に残された鍵の謎
その家の裏庭から、一つの古い鍵が発見された。それは三人目――消えた男のものだった。彼は、名義を残したまま家を去ったわけではなかった。彼はまだ、そこにいた。
遺品として残された鍵。遺言もない。だが、それは彼の「ここにいた証」だった。登記簿が消しても、残されたモノが語っている。
そして依頼人は、初めて静かに泣いた。今度は理由のある涙だった。
真犯人は登記簿の向こう側にいた
三角関係の終点は「想定外の人」だった
真実をひもといていくと、委任状を偽造したのは依頼人自身だった。「彼がいなくなったとき、私はこの家を守りたかった」その言葉には後悔と執念が混じっていた。
法的にはアウト。だが感情的には、わからなくもない。いや、僕が理解してはいけない立場なのだが。
最終的に、調停に委ねることになった。「登記」だけでは片付けられない現実が、そこにはあった。
シンドウが読み解いた小さな違和感
委任状の日付のズレ、筆跡の揃いすぎ、提出された戸籍の整い方。どれも「きれいすぎた」のだ。きれいな書類ほど、裏がある。
昔読んだルパン三世の回で「偽札のほうが本物より美しい」なんてセリフがあったっけ。あれと似ている。
やれやれ、、、僕の仕事は司法書士であって、探偵じゃないんだけどな。
サトウさんの皮肉と僕の溜め息
恋と登記の整理は一筋縄ではいかない
調査が終わった後、サトウさんがぽつりとつぶやいた。「恋愛感情の登記簿って、あったら便利ですよね」。皮肉混じりのその一言に、僕は反論できなかった。
想いを記録する書類があったら、僕も誰かに提出してたかもしれない。受付印のある、きちんとしたやつを。
だが、僕にはそんな相手も、そんな勇気もなかった。
誰の名義が残ったのか そして誰が去ったのか
最終的に残された名義は、依頼人ひとりだけになった。元夫も弟も、自分から名義を外す決意をしたのだ。もしくは、そう仕向けられた。
でも、名義が一人になったからといって、その家が「空っぽ」になるわけではない。そこには、三人の記憶が今も残っている。
「これからは、ひとりで守ります」そう言った依頼人の背中に、微かな覚悟がにじんでいた。