なぜか既読スルーされがちな自分
朝、スマホを開いてLINEの通知を確認するのが日課だが、返事がないトークルームばかりが目に入る。別にたいした用事じゃないし、催促するほどのことでもない。そう思いつつも、いつまでたっても返信がないと、自分の存在が薄れていくような感覚に襲われる。40代半ばで独身、友人も昔より少なくなってきた今、何気ないやり取りの一つひとつが、思った以上に心の支えになっていることに気づかされる。
返信が来ないLINEを見る朝の習慣
仕事の始まる前、コーヒーを片手にスマホを開くと、前夜に送ったLINEは既読のまま。既読がついていることに少しだけ安心しつつも、返信がないことに引っかかりを感じる。「あれ、何か変なこと言ったかな」「忙しいのかな」と頭の中で言い訳を並べてしまう。昔の野球部時代の同期に飲みの誘いを送っても、スタンプひとつの返事すら来ないこともある。自分だけが過去に取り残されているようで、妙に寂しくなる。
誰かとつながっていたいのに伝わらない
仕事で人と話す機会はあっても、それはほとんどが業務上のやりとり。心の内を共有する相手となると、ほぼ皆無だ。だからこそ、ちょっとしたLINEのやり取りにも心を込めてしまうのだが、相手にとっては重すぎるのかもしれない。たった一言の返事がもらえないだけで、心がすとんと冷える。つながりたい、でも届かない。そんな歯がゆさの中で、今日もまた仕事が始まる。
元野球部の仲間ですらそっけない現実
かつて泥だらけになって一緒に汗を流した野球部の仲間たちも、今では家庭を持ち、別世界の人のように感じる。「また飲もうな」と言っていたはずなのに、こちらから連絡しても反応は鈍い。返事が来たとしても「そのうちな」という曖昧なものばかり。時が経てば仕方ないのかもしれないが、どこか置いてけぼりにされたような気持ちになる。
司法書士という職業の孤独
司法書士という仕事は、意外にも人と深く関わる機会が少ない。依頼者との接点も一時的で、事務的なやり取りに終始することが多い。相談を受ける立場ではあるが、こちらが相談したくなるような人間関係は職場には存在しない。だからこそ、LINEの通知一つに一喜一憂してしまう自分がいる。
書類と向き合う時間が人間関係を蝕む
一日中、登記の書類とにらめっこ。登記識別情報、委任状、印鑑証明…無味乾燥な紙の山を処理しながら、「人」と向き合っている気がまったくしない。依頼人とのやり取りも電話やメールで完結することが多く、雑談など皆無だ。こうした環境のなかで、自然と人間関係を築く機会も減っていく。
事務員はいても会話はほぼ業務連絡のみ
事務員の女性は真面目でよく働いてくれるが、業務中の会話は淡々としたものばかり。「これ、確認お願いします」「明日締切です」…それ以外の話題になると、どこかぎこちない空気になる。職場に気を遣いすぎて、自分自身の人間性を隠してしまっているのかもしれない。
気づけば心の相談相手がいない
以前はよく母に愚痴を聞いてもらっていたが、今ではその母も施設に入ってしまった。気軽に話せる相手がいないというのは、想像以上に堪える。何かうまくいかないことがあっても、誰にも話せないまま自分の中で処理するしかない。LINEで誰かにポツリと送った一言に返事が来ないとき、その孤独がより強調される。
スルーされることに慣れてしまう自分
「どうせ返ってこないし」と思いながらも、また誰かにLINEを送ってしまう。返信を求めていないふりをしながら、本当は少しだけ期待している。スルーされることに慣れるというのは、自分を守る術でもあるのだろうか。あるいは、自分がそれだけ無関心な存在だと認識している証なのか。
仕事でも私生活でも返信を待つことが日常
登記に関する問い合わせを法務局に送っても、なかなか返事が来ない。補正の指示も期限ぎりぎりだったりして、気を揉む。プライベートでも仕事でも「待つ」時間がやたらと多い。待ち疲れて、何も期待しない癖がついてしまったのかもしれない。
慣れとは諦めか それとも適応か
いつからか、期待しないように自分を制御するのがうまくなった。連絡が来なくても落ち込まないように、感情を抑えるのが癖になった。「慣れ」とは、諦めることと紙一重だと思う。だけどそれが大人になるってことなのかもしれない。適応してるのか、ただ我慢してるだけなのか、自分でもよくわからない。
既読スルーと向き合うために
既読スルーに傷つかないためには、まず「誰かに返事をもらうこと」そのものに依存しないようにするしかない。返信があろうとなかろうと、自分の存在は否定されるべきではない。それでも、心はそんな理屈では納得してくれないこともある。
返信を期待しないことで心を守る
返事が欲しいから送るのではなく、自分の気持ちを言葉にしたいから送る。そう思うようにしてから、少しだけ気が楽になった。既読スルーされても、「まぁ、それもその人の自由だ」と流せるようになってきた気がする。期待しないという防衛策は、寂しいけれど必要な処世術だ。
一方通行でも発信を続ける理由
誰からも返事がなくても、自分からは言葉を投げ続ける。ブログもそうだし、この文章もそう。たとえ読んでいる人がいなくても、「誰かに届くかもしれない」と信じて書いている。そうすることで、自分自身の存在が少しでも認められているような気がするからだ。
それでも誰かに届くかもしれない
この文章を読んでくれる誰かがいて、「自分も同じだ」と思ってくれたら、それだけで救われる。返事はいらない。ただ、共感してもらえたら、それでいい。そんなささやかな希望が、明日もLINEを開く理由になる。
仕事のやりがいと人との距離感
司法書士としての仕事には誇りがある。だが、それと引き換えに「人とのつながり」は希薄になってしまった。それでも、たまに依頼者から「助かりました」「ありがとうございます」と言われる瞬間が、心の深くにしみわたる。LINEの既読スルーに凹む日々でも、そうした言葉が少しずつ自分を支えてくれる。
感謝の言葉は書類には書かれていない
毎日目にするのは申請書や登記簿謄本、契約書の文言。そこに感情はない。けれど、ふとしたタイミングで依頼者が言葉をくれる。「忙しい中、ありがとうございました」その一言で、「ああ、やっててよかった」と思える。LINEの既読スルーでは得られない、温かさがそこにはある。
でもたまにある「ありがとう」が心に刺さる
誰かの「ありがとう」は、時にLINEの返信よりも深く届く。無視されたような感覚ばかりが続く毎日でも、この一言があれば、もう少しだけ頑張ろうと思える。司法書士という孤独な仕事でも、人の役に立てたという実感がそこにある。