頼りになるって言葉に弱いんです
「頼りになるね」──その一言が、自分の存在を肯定してくれるような気がして、昔から妙に心に刺さる言葉でした。司法書士として独立してからも、その言葉が欲しくて、どんなに忙しくても「任せてください」と笑って引き受けてしまう癖が抜けませんでした。いつしか、「頼られること」が生きがいのようになり、気がつけば、自分のキャパを超えた仕事を背負い込んでいました。
その一言のために無理をする性格
高校時代の野球部でも、怪我している仲間の代わりに黙ってポジションを変わって練習を続けたり、朝練のボール拾いを誰よりも早く来てやったりしていたんです。あのときも、「お前がいると助かるよ」なんて言われるのが嬉しくて、どこかで「自分にはこれしかない」と思い込んでいました。無理してでも誰かの役に立ちたい。それが癖になっているんです。
高校時代の野球部でも感じた使命感
チームに貢献することが、自分の存在価値だと思っていました。試合に出られなくても、バットを並べたり、グラウンド整備をしたり、そういう雑務を黙々とやっているときのほうが落ち着いていた気がします。でも、本当は「頼りになる」と言われるための計算がどこかにあったんですよね。純粋な奉仕ではなく、自分の寂しさを埋めたかっただけかもしれません。
頼られたいがための仕事の引き受け方
司法書士になってからもその習性は変わりませんでした。相続登記、会社設立、抵当権抹消……一日に何件も予定を詰め込んで、問い合わせにも即レスポンス。自分の中では「これがプロだ」と思っていましたが、実際は「断るのが怖い」だけでした。頼まれたことを断ってしまったら、もう二度と頼ってもらえないんじゃないかと不安で仕方なかったんです。
断れない性分が今日も疲労を生む
結局、体力も気力も削られて、夕方にはソファでぐったり。事務所の電話が鳴るとビクッとしてしまうのに、鳴らなかったら鳴らなかったで「もう必要とされてないのか」と落ち込む。完全に矛盾してますよね。頼られたいくせに、頼られるとしんどい。でも断れない。この繰り返しで、だんだんと疲弊していく自分がいました。
ありがとうより助かったの中毒性
「ありがとう」と言われるよりも、「助かった」「あなただからお願いできた」という一言のほうがグッとくるんです。なんなら、報酬よりもそういう言葉のほうが満足感がある。司法書士って、黙々と書類を作って終わり……みたいな印象を持たれがちですが、その中にも人間関係のドラマがあって、つい感情で動いてしまう瞬間があります。
評価が欲しいという欲望と依存
結局のところ、誰かに必要とされていたいんですよね。独身で家族もいないし、事務所でも一人。だからこそ、誰かに頼られているという感覚が心の支えになってしまう。けれど、それって一歩間違えると依存なんです。頼られないと不安になるし、自分の評価がないと動けなくなる。そういう自分に気づいたとき、情けなさでいっぱいになりました。
誰かの役に立つことでしか自分を保てない
ある意味、誰かの役に立っていないと、自分の存在を感じられないんです。まるで空気のように、透明になっていく自分が怖くて、つい仕事を増やしてしまう。休日に予定がないと不安で、わざと仕事を入れたりするのも、たぶん同じ心理なんでしょうね。静かな時間が、自分の孤独を直視させてくるから。
でも心のどこかで空虚さを感じている
いくら感謝されても、寝る前に布団の中で考えるのは、「これって誰のための人生なんだろう」ってことだったりします。満たされた気になっていたけど、それは一瞬のこと。次の日になればまた「頼りになる存在」でいようと頑張ってしまう。終わりのないマラソンを走っているような気持ちです。
事務員に言われた何気ない一言
そんなある日、事務員の子がぽつりと言ったんです。「先生って結局一人で抱えますよね」って。それが悪口じゃなく、むしろ心配から出た言葉だったんですが、妙にズシンと響きました。人に頼られることばかり考えて、自分が人に頼ることをまったくしてこなかった。自分の弱さを、誰にも見せられていなかったんです。
先生って結局一人で抱えますよね
彼女はただの観察で言ったのかもしれません。でも、ずっと言われたくて頑張ってきた「頼りになる」という言葉の裏には、「誰にも頼れない人間」になってしまっていた自分がいました。そのとき、初めて気づいたんです。僕は「頼りになるね」が欲しくて、自分の心をどんどん閉じていたんだと。
図星を刺されて笑えなかった
笑ってごまかそうとしたけど、表情が引きつっていたのが自分でもわかりました。仕事も人生も、「自分でやらなきゃ意味がない」と思っていたけれど、それって結局、自分の弱さを他人に見せたくなかっただけなんです。図星を刺されたときって、こんなに恥ずかしくて、でもありがたいものなんですね。
事務員の冷静な目線に救われた瞬間
「無理しないでくださいね」と言われて、思わず涙が出そうになりました。自分が思っている以上に、周りは見てくれていたんだなと。独立してからずっと、自分一人でやらなきゃと思っていたけれど、そんなこと誰も望んでいなかった。むしろ、ちゃんと頼ってくれたほうが、周りも動きやすいんだって気づかされました。
頼られすぎた結果訪れた孤独
気がつけば、事務所にいる時間が一番長く、プライベートの予定はどんどん消えていきました。仕事を通してしか人と関わらない。そんな日々に、いつの間にか孤独が染みついてしまっていたのかもしれません。
仕事は山積み人間関係は崩壊寸前
昔の友人に連絡するのも億劫で、飲みに誘われても「ちょっと忙しくて」と断るのが常でした。でも本当は、誰かと過ごす時間の作り方を忘れていただけだった。仕事を言い訳にして、人との距離を自分から取っていたんです。
予定は埋まっているのに心は空いている
カレンダーはびっしり埋まっている。でも、それを見てホッとするのは、空っぽの自分を見なくて済むからでした。「頼りにされている」という事実だけが、何かを埋めてくれるような気がして。けれど、夜の静けさは嘘をつきませんね。
友達とも疎遠になってしまった理由
気づけば連絡先を開いても、話しかける相手がいない。自分で距離を置いた結果です。友人たちは悪くない。むしろ、「頼りになる自分」を演じることに必死だった自分が、友達でいることを難しくしていたんです。
自分を変える一歩を踏み出せるか
じゃあ、これからどうするのか。40代も半ばを迎えて、今さら何かを変えるのは難しいかもしれない。それでも、自分が誰かにちゃんと頼れるようになることが、これからの人生を少しだけ軽くする気がしています。
誰かに頼ることへの恐怖と希望
誰かに頼るって、勇気がいることです。でもそれは、弱さの表現じゃなくて、信頼の証かもしれない。そう思えるようになってきました。まだ慣れませんが、「助けて」が言える自分に、少しだけなれた気がします。
頼りになるねじゃなくて一緒にやろうへ
今は、「頼りになるね」と言われるより、「一緒にやろうか」と声をかけてもらえるほうが嬉しいです。肩を並べて進める関係のほうが、長く続けられる気がするんですよね。無理して上に立たなくてもいい、そんな働き方がしたいです。
司法書士としてじゃなく人としての再出発
肩書きじゃなく、人として信頼されたい。そう思うようになりました。誰かのヒーローになることじゃなく、隣にいて一緒に笑える人間でありたい。司法書士という仕事を通して、少しずつそんな関係を築いていけたらと思います。