登記完了の瞬間に訪れる空虚
「はい、これで登記は完了です」と言って書類を渡すその瞬間。依頼者はほっとした顔でうなずき、時に笑顔で「ありがとうございました」と頭を下げてくれる。なのに、私はといえば、なんだか心の奥にぽっかり穴が開いたような感覚になることがある。仕事としては完璧にこなした。スケジュール通り、ミスなく、丁寧に。けれど、胸に残るのは達成感ではなく、妙な虚しさだ。まるで自分の存在が、一瞬だけ人の人生に関わったあと、また静かに誰の記憶からも消えていくような、そんな気がする。
依頼者の笑顔と自分の無表情
登記が終わって、依頼者が笑顔になる瞬間は、本来であればこちらも誇らしい気持ちになるべきなのだろう。けれど、自分の顔はいつも無表情だ。鏡を見ても、そこにいるのは感情を切り離したような男。依頼者の人生の節目に立ち会いながらも、自分の感情には無頓着になってしまった。嬉しい、悲しい、悔しいといった感情が、年々薄まっているような気がする。何十件とこなしていくうちに、「感情」は業務に不要なノイズになってしまったのだろうか。
手続きは順調なのに心は晴れない
ある日、相続登記を依頼された高齢の女性がいた。複雑な案件だったが、期日までにきちんと手続きを終えた。彼女は涙を浮かべて「やっと終わったわ…ありがとう」と言ってくれた。その時も、私の心には何の波も立たなかった。ただ、スケジュール通り終えたというだけの事実しか残らなかった。帰り道、コンビニでコーヒーを買い、事務所に戻ったけれど、その日一日の出来事が、まるで他人の話のように感じた。
淡々とこなすことの副作用
司法書士として、感情を持ち込まず淡々と業務をこなすことは、ある意味では正解なのかもしれない。けれど、それを繰り返すうちに、人間としての感受性や共感力が摩耗していく感覚がある。喜びにも悲しみにも寄り添わず、ただ「完了」の二文字だけを追いかける日々。その副作用が、こうして登記が終わったあとの空虚感として現れているのだろう。便利屋でも、事務処理屋でもないつもりなのに、心のどこかで「自分の役割はそこまで」と線を引いている自分がいる。
仕事の達成感と孤独感の同居
「やりきった」と思える日は確かにある。でも、同時に「また一人だったな」と思う日もある。誰にも見られていないところで書類を揃え、法務局とやりとりし、黙々と業務をこなす。完了通知が届いた瞬間、一人きりの事務所で「終わったな」とつぶやくだけ。誰かとハイタッチをするわけでも、拍手をもらうわけでもない。達成感のそばに、いつも孤独がついてくる。仕事がうまくいくほどに、その寂しさは増していくような気がしてならない。
報告メールを送った後の静寂
登記完了の報告をメールで送る。本文には淡々とした文章が並ぶ。「添付の通り、登記が完了しました。ご確認ください。」たったそれだけ。送信ボタンを押したあと、PCのモニターを見つめる自分がいる。誰もいない部屋。キーボードの音も止まり、静まり返った空間に、自分の存在だけが取り残される。メールを見た依頼者がどんな顔をするのか、どんな気持ちになるのか、想像する余裕すら持てなくなっている自分が少し怖い。
机に残る書類と向き合う夜
報告メールを終え、机の上に残された原本や控えを片付ける夜。蛍光灯の光に照らされた紙の束は、まるで今日一日の証人のように静かに佇んでいる。それを一枚ずつ封筒に入れていく作業は、どこかしんみりとしていて、終わりの儀式のようにも感じる。けれど、心が軽くなるわけではない。むしろ、ふとした瞬間に「俺、このままでいいのかな」と思ってしまう。そんな自問を繰り返しながら、書類と向き合う夜は静かに更けていく。
感情の居場所を見失う日々
司法書士としての仕事は、人の人生の節目に寄り添う仕事だと思っていた。けれど最近、自分の感情がどこかに行ってしまったような気がしている。喜怒哀楽の「哀」だけが濃く残って、他の感情が鈍くなっている。年齢のせいなのか、仕事の積み重ねなのか、原因はわからない。でも確実に言えるのは、登記が終わるたびに「これで本当に良かったのか」と思うようになってきたこと。感情の居場所を見つけられずに、ただ毎日が過ぎていく。
泣けない自分と感情の麻痺
昔は感動する映画を観て泣くこともあった。球場で応援していた頃は、負けた試合に涙したこともある。でも今は、どんなに悲しい話を聞いても、心が動かない。依頼者が泣いていても、ただ黙って頷くだけだ。感情が麻痺しているというより、どこかに鍵をかけて閉じ込めてしまったのかもしれない。それが仕事にとって必要だったのだとしても、自分自身としては失ったものが大きい気がしている。
人のドラマに触れても共鳴できない
登記の背景には、必ず人のドラマがある。離婚、相続、贈与、住宅取得。人生の分岐点に、司法書士は立ち会っているはずなのに、そのドラマに心が共鳴しない。形式ばかりを重視して、本当の人間関係や想いには立ち入らないようにしている。そうやって線を引き続けた結果、共感力が失われたのかもしれない。人の話を聞きながら、同時に「これをどう処理するか」ばかり考えてしまう自分に、がっかりする瞬間がある。
終わりましたよりお疲れさまがほしい
登記が終わった時、「終わりました」という一言で片付けるのが常だ。けれど、本当は「お疲れさまでした」と言ってほしい時がある。自分でも、誰かにそう言ってもらえたら少し救われる気がする。それは依頼者ではなく、同僚や家族、あるいはパートナーのような存在かもしれない。でも、独身でひとりの事務所には、そんな相手はいない。だからこそ、「終わった」けれど「終われない」心が残るのだろう。
登記は終わっても人生は続く
書類に印鑑を押し、完了通知を送っても、その先には依頼者の生活が続いていく。そして、私の生活も続いていく。淡々と、静かに、何も変わらないようでいて、少しずつ何かが失われていくような日々。それでも、明日も登記がある。次の依頼者の人生に、また一歩だけ関わるために。だから今日も、心が終わらなくても、仕事は終えなければならない。
はんこを押しても押せない気持ち
登記に必要な書類に、何度も何度も印鑑を押す。その作業のたびに思う。「自分の気持ちにも、こうやって完了の印が押せたら」と。でも感情にはそう簡単に区切りはつかない。過去の後悔も、未来への不安も、無理に封印しようとしても、にじみ出てくる。それでも仕事だからと片付けて、また一つの案件に向かう。気持ちに印は押せないまま。
見届け人にはなれても寄り添う人ではない
司法書士は、人生の節目を見届ける役割だ。確かにそれは責任ある仕事で、やりがいもある。でも見届けるだけで、寄り添うことはできない。その距離感が、どこか寂しく感じる。人の人生には関わっているのに、誰の人生にも深く入れない。だから、登記が終わったあとに「心が終わらない」と感じるのかもしれない。それは、孤独の裏返しでもあるのだろう。