画面の前でしか言えないことがある
誰かと会話していても、どうしても喉元で言葉が引っかかることがある。特にこちらが司法書士という立場だと、どうしても“ちゃんとしていないといけない”という無言のプレッシャーがある。そんな中、本音を話す場があるとしたら、それはだいたい夜、パソコンに向かって文章を打ち込んでいるときだ。誰に向けて書いているわけでもない。けれど、誰かに読まれるかもしれないという前提で本音を吐露する。その矛盾の中に、不思議と安心感がある。
声に出すよりタイピングの方が楽だった
会話って意外とエネルギーがいる。相手の反応を気にしながら、自分の立場も守りながら話さなきゃいけない。だけど、キーボードに向かうと、不思議とそれがない。昔、部活の後に一人でグローブに話しかけてたあの頃と同じように、黙って画面に向かってると自然と本音が出てくる。誰かに理解してほしいけど、誰にも聞かれたくない。そのわがままを叶えてくれるのが、文字だった。
打ちながら気づく自分の気持ち
書きながら「ああ、俺はこんなふうに思ってたんだな」って気づくことがよくある。特に、クライアントとのやりとりでうまくいかなかった日なんかは、感情を整理するように文字にしている。そうしないと、次の日もずっと引きずってしまうから。打った文章は誰にも見せないけど、自分の中の整理整頓にはなってると思う。もしかしたら、声に出すよりもよっぽど“本当の気持ち”に近づける方法かもしれない。
誰にも見られない安心感が本音を引き出す
人前で言葉にするって怖い。反応が返ってくるから。でも、キーボードに向かっているときはその心配がない。昔、部屋の壁に向かって素振りをしていた感覚に似ている。誰に見せるでもなく、誰かの評価を気にするでもなく、ただ自分のペースで自分の感情をぶつける。そういう時間がないと、正直この仕事は続けられない。見られないからこそ言えることがある。それは、僕にとって本当に大きな救いだ。
司法書士という仕事の重さと孤独
この仕事をしていると、「先生」と呼ばれることが増えてくる。でも実際のところ、そんな立派なもんじゃない。日々、登記の書類に囲まれ、電話に追われ、事務員が帰ったあとにひとり残って処理していることも多い。誰かと分かち合える瞬間は少ないし、間違えられないというプレッシャーは常にある。だからこそ、夜になるとふと孤独が押し寄せる。肩書きではなく、ただの「ひとりの自分」に戻りたくなる時間だ。
困ってる人のためにという理想は今もある
最初に司法書士になろうと思ったときは、「人の役に立ちたい」という気持ちが強かった。親の相続で困っていた知人を見て、自分ができることがあるのではと思ったのがきっかけだった。今でもその気持ちはある。相談に来た人が少し笑顔になって帰っていくとき、それだけで救われる。でもその一方で、現実の業務はかなり地味で、自己満足だけでは続かない部分もある。だからこそ、心の整理が必要になる。
でも現実は締切と責任に追われる毎日
書類の山を前にして、何度も「なんでこの道を選んだんだろう」と思ったことがある。責任は重いし、誰かが困っていてもこちらのキャパには限界がある。急ぎの登記や、急な予定変更、時には理不尽なクレームもある。そうした日々の積み重ねで、だんだんと「理想」を語る余裕がなくなってくる。でもそんなときほど、本音を外に出さないといけない。書くことでしか、処理できない感情もたくさんある。
同業者との距離感も本音を隠す原因に
不思議と、同じ司法書士の仲間ともあまり本音を語れない。表向きは「順調ですか?」なんて笑って話すけど、内心はみんなギリギリでやってる。誰かが潰れそうでも、それを察しても触れないようにしてしまう。競争もあるし、ミスを共有できるような関係性ってなかなか築きにくい。だから、結局夜にパソコンに向かって一人で書く。それが、僕の“相談相手”になっているのかもしれない。
人には言えないけど文章にはできる
人との会話ではどうしても「建前」が先に立ってしまう。でも、文章なら本音をぶつけられる気がする。誰かに読まれる前提でありながら、自分の感情を正直に吐き出せる不思議な空間。特に、この仕事をしていると感情を表に出すのが苦手になるけれど、文章というツールはその分、感情を映す鏡になる。キーボードを叩く時間が、いつしか心の避難所になっていた。
画面の向こうに誰かがいると思えるとき
ときどき、「これ誰かに読まれてるのかな」って思うことがある。誰かの共感を得られたら嬉しいし、誰かが「自分も同じだ」と感じてくれたら救われる。話し相手がいなくても、文章を通じてつながれる感覚。それは、まるでキャッチボールのようだ。投げたボールが誰かに届いて、返ってくる。それがなくても、投げることで救われる。画面の向こうには、まだ見ぬ味方がいると信じている。
誰かに届くかもしれないと信じて書く
この文章だって、もしかしたら誰かの夜に寄り添えるかもしれないと思って書いている。司法書士という職業を選んだ人や、これから目指す人。あるいは、ただ誰かの愚痴に共感したいだけの人。誰かに「わかる」と思ってもらえるだけで、自分が存在している意味を感じられる。声に出さない代わりに、文字で伝えたい。そんな思いで、キーボードを叩いている。
書くことが自分を守る手段になっている
文章にすることで、自分の気持ちが整理される。ぐちゃぐちゃになった感情が、打つことで少しずつ整っていく。まるで、書類を分類するように気持ちを棚に戻していく感覚。時々、「もう辞めたいな」って思う夜もある。でも、書いているうちに少しだけ落ち着く。そしてまた、次の日もやれる気がする。誰かに話すのは難しいけど、キーボードになら正直でいられる。それだけで、なんとか今日もやっていける。
キーボード以外にも居場所を探している
いつまでもキーボードだけに頼っていられないとは思っている。本当は、リアルな会話の中でも本音を言えたらどれだけ楽か。でも、それができないからこそ、日々探している。「ここなら話せるかもしれない」という小さな居場所を。無理せず、自分を出せる関係。それを見つけたい。見つからなくても、探し続けたい。
事務員との雑談に救われる瞬間
一人だけ雇っている事務員がいる。年齢も離れていて、特別深い話をするわけじゃないけど、たまにぽろっと「先生も大変ですよね」と言ってくれる。その一言だけで救われた日がある。普段は業務的な会話ばかりだけど、ふとした瞬間の雑談が本音を言えるきっかけになることもある。そういう「何気ない優しさ」に気づけた日は、少しだけ世界が温かく見える。
独身の寂しさを野球の記憶で埋める日々
ふとテレビで高校野球を見ていると、昔の記憶がよみがえる。仲間と一緒に汗を流して、バカみたいなことで笑ってたあの頃。今はその頃の仲間とも疎遠になってしまったけれど、あの頃の自分は確かにいた。今は一人の時間が多く、寂しさを感じることも多い。でも、グローブの匂いとバットの音を思い出すと、少しだけ胸があたたかくなる。
本音で話せる誰かに出会える希望は捨てていない
本音を話せるのがキーボードだけ。それが現実だとしても、それで終わりにしたくない。いつかは、声に出して本音を言える誰かに出会えたらいいと思っている。面と向かって「実はさ」と言える日が来たらいい。そのときは、パソコンもスマホも必要ない。ただ一緒にいてくれる人がいればそれでいい。そう願いながら、今日もまたキーボードを叩いている。