誰もが気にするのは仕事の進捗だけ
朝、体調が悪くて顔色が悪くても、事務所に来た瞬間に飛んでくるのは「例の件、進んでますか?」という言葉。もちろん相手に悪気があるわけじゃない。そう、わかってはいる。でも、どこかで「大丈夫ですか」の一言が欲しかったりもする。司法書士という仕事は、感情を置き去りにして事務を回すことが求められる場面が多い。誰かが困っているときには手を差し伸べたいと思うのに、自分が困っていても、誰も気づかない。そんなジレンマが日々、心を擦り減らしていく。
出社しても熱があっても聞かれるのは進み具合
ある日、熱が38度を超えていた。それでも休むわけにはいかず、フラフラしながら事務所へ。汗をかきながら椅子に座ると、電話が鳴る。「すみません、あの登記の進捗、どうなってますか?」。その瞬間、熱よりも心が冷えた。「あぁ、自分って“登記の進捗”でしか見られてないのかもな」と思った。責任がある仕事だし、期待されているからこそ。でも、“人としての存在”が透明になったような気がして、なんとも言えない虚しさだけが残った。
体調の一言よりも先に出る言葉がある
こういうことは一度や二度じゃない。風邪、腰痛、寝不足。いろんな体調不良を抱えて働いているのに、「お大事に」の一言より先に「書類できましたか?」が飛んでくる。そんな毎日を繰り返していると、「心配される対象ですらない自分」に気づいてしまう。それでも、仕事を止めたら誰かが困る。だからやる。やり続ける。いつから“自分”より“仕事”が優先される生き方になったんだろう。ふと、そんなことを思ってしまう。
心の中で突っ込むしかない日々
「俺の顔、見て言ってる?」そんな突っ込みを心の中で叫ぶ日々。でも、声には出さない。出せない。司法書士という肩書きを持ってしまった瞬間から、感情よりも正確さ、スピード、責任が優先される世界に足を踏み入れた。泣き言なんて言っていられない。でも、本当は誰かに言いたい。「今日はつらい」「休みたい」「しんどい」。でも、それを言うと、“プロ失格”みたいに思われる気がして、言えない。だから今日も、無言で仕事をこなす。
司法書士という仕事の責任の重さ
司法書士の仕事には、誰かの人生を左右する書類がある。登記、相続、遺言、会社設立。それぞれに重みがあって、間違いは許されない。だからこそ、進捗を聞かれるのも当然なのかもしれない。でも、だからといって「人」としての自分が消えていいわけじゃない。機械のように淡々と働く毎日。だけど、僕は機械じゃない。日々、プレッシャーに押し潰されそうになりながら、ぎりぎりのバランスで踏ん張っている。責任感が強いほど、孤独も深くなる。
書類一つで人生が変わることもある
たった一枚の書類で、相続争いが回避できることもあれば、逆にトラブルが火を噴くこともある。そういう場面を何度も見てきた。だからこそ、適当にはできない。手を抜けない。お客さんの言葉に耳を傾け、背景を読み取り、丁寧に仕上げる。それが僕らの使命。でも、その裏で、何かが削れている気がする。気づいたら、感情も表情もすり減っていて、「なんでこんなに疲れてるんだろう」と夜中に天井を見つめる日が増えていた。
だからこそ雑にはできないというプレッシャー
「この書類、間違っていたらどうしよう」「もしトラブルになったら責任は自分にある」。そんな思いが常に頭をよぎる。プレッシャーは自分で自分を追い込む最大の装置だ。周囲は「大丈夫でしょ」と軽く言うけれど、僕の中ではちょっとした判断ミスが命取りになる。だからこそ、寝不足でも、体調が悪くても、手を抜かずにやる。それが信頼に繋がることもある。でもその代償は、誰にもわからないまま積み上がっていく。
休んだらどうなるかが頭を離れない
たまに「今日は無理かもしれない」と思っても、次に浮かぶのは「じゃああの登記、誰がやるの?」という問いだ。代わりなんていない。事務員に頼める仕事にも限界がある。だから、多少無理してでも出勤する。結果、体調はどんどん悪化していくけど、誰もそれには気づかない。気づかれても、気を遣わせたくないから笑ってごまかす。そんな働き方が続いている。でもいつか、倒れるまで気づかないんじゃないかと不安になる。
優しさに飢える働き方
「お疲れさま」の一言が、こんなにも嬉しいとは思わなかった。優しさって、与えることはできても、自分が受け取るのは意外と難しい。特にこの仕事をしていると、気を張ってばかりで、優しさに気づく余裕すらなくなってしまう。けれど、時折もらう「無理しないでくださいね」の一言に、心がふっと軽くなる。たったそれだけで、明日も頑張ろうと思える自分がいる。人って、言葉一つで救われる。そう思うと、もっとそういう言葉をかけ合える職場にしたいと思う。
事務員の存在が唯一の救い
うちの事務員さんは、僕の顔色でだいたいの体調を察してくれる。何も言わなくても、黙ってお茶を出してくれたり、気遣いの言葉をかけてくれる。その一言で、救われる瞬間が何度もあった。誰かに気にかけてもらえること、それがどれだけありがたいか。事務員の存在は、僕にとって本当に大きい。だからこそ、大切にしたいし、負担をかけたくない。そう思うから、つい無理をしてしまうこともあるけれど。
でも事務員にも気を遣ってしまう性格
本音を言えば、「今日は本当にダメかも」と弱音を吐きたいときもある。でも、事務員の前でも無理に明るく振る舞ってしまう。相手に心配をかけたくないし、職場の雰囲気を重くしたくない。だから、つい笑ってごまかしてしまう。その結果、誰にも本当の気持ちを打ち明けられなくなる。優しい性格が裏目に出る瞬間でもある。でもきっと、同じように“優しさ”で自分を追い込んでいる人は多いのではないかと思う。
誰にも弱音を吐けない構造
一人で事務所をやっていると、弱音を吐ける相手が本当に限られる。同業者に愚痴を言っても、「お互い様だよね」で終わってしまう。家に帰っても独り。話す相手もいない。スマホで野球の結果を見ながら、昔の自分を思い出す。あの頃は、仲間がいて、励まし合えた。今はどうだろう。誰にも見られていない部屋で、ため息だけが響く。弱音を吐ける場所がない。それが、一番しんどいのかもしれない。
だからせめて同業者には優しくありたい
自分がしんどいからこそ、同業者には優しくしたい。新人さんが戸惑っていたら、手を差し伸べたい。無理している人がいたら、声をかけたい。誰かが倒れる前に、気づける存在でありたい。自分がしてほしかったことを、誰かにしてあげられたら、それだけで少し救われる気がする。司法書士の世界は孤独だ。でも、孤独な人が孤独な人を支え合えたら、ほんの少しだけ温かくなるんじゃないかと思う。
共感できるだけでも少し救われる
この文章を読んで、「ああ、自分もそうだな」と思ってくれる人がいたら、それだけで十分。解決策なんてなくても、共感するだけで少し気が楽になることがある。だから僕は、こうして愚痴まじりに文章を書く。誰かの気持ちに、そっと寄り添えたらいいなと願いながら。誰かが「一人じゃない」と思えたら、僕自身も「一人じゃない」と思える。それが、このコラムを書く理由かもしれない。
過去の自分に言ってあげたい言葉
もし過去の自分に声をかけられるなら、こう言いたい。「無理しすぎるな」「頑張りすぎるな」「誰かに頼れ」。若いころは、頼ることが“弱さ”だと思っていた。でも今は、頼ることは“信頼”の証だとわかる。一人で抱え込むよりも、誰かと分かち合う方が、ずっと強い。そんな言葉を、自分自身にも、そして今つらい思いをしている誰かにも届けたい。
頑張りすぎなくてもいい時があってもいい
本当にしんどい時は、頑張らなくてもいい。完璧じゃなくてもいい。仕事の進捗だけを気にされる世界に疲れたなら、少し歩くスピードを緩めてみてもいい。誰も心配してくれないなら、自分で自分をいたわるしかない。そうやって、今日もなんとか生き抜く。それでいい。僕らは人間なのだから。