午前九時の違和感
封筒は書類棚の奥に
朝、事務所の鍵を開けた瞬間、いつもと何かが違った。埃っぽい匂い、開けっぱなしの窓、そして書類棚の扉が少しだけ開いていた。 その隙間から、薄茶色の封筒が顔を覗かせていた。封もされていない古びたそれは、まるで誰かの手からこぼれ落ちたように、そっとそこに佇んでいた。
差出人不明の筆跡
封筒の中には、一枚の便箋が折りたたまれていた。万年筆で書かれた丸みのある文字がそこに連なっていた。 宛名も署名もない。しかし、読み進めるにつれ、それが単なる手紙ではないと直感した。 それは、十数年前の恋と、そしてある不動産登記にまつわる、未完の真実を綴った“証拠”だった。
依頼人は顔色を変えた
事務所に届いた一通の手紙
ちょうどそのタイミングで、来所予定の依頼人が現れた。彼女は地元の旧家の娘で、今回の依頼は土地名義の移転登記だった。 書類棚から見つかった手紙を机に伏せたまま、応対を続ける。が、その女性の目が、封筒に釘付けになる。 そして彼女は、まるで幽霊でも見たかのように小さく震えた。「……それ、どうしてここに?」
動揺する地主の娘
封筒をそっと押し出すと、彼女はその中身を確認せずに目を伏せた。「それは私の父が…昔…破談になった相手に宛てて出せなかった手紙です」 そして次に出た言葉は意外だった。「あの手紙が世に出れば、土地の所有に関して父の正当性が…問われるかもしれません」 なるほど、恋の余韻が権利関係をも左右する。世の中、サザエさんみたいに明るく解決とはいかないらしい。
サトウさんの冷静な分析
古い土地譲渡契約書の中に
「シンドウさん、これ、登記識別情報じゃなくて“契約書の原本”ですよ」 サトウさんが一枚の紙を手に持って言う。彼女の声はいつも通り冷静だが、目は鋭かった。 見慣れない形式のその文書には、手紙と同じ筆跡で追記があった。「本来この土地は…彼女に贈るはずだった」と。
手紙の内容は事実か嘘か
内容の真偽は定かではない。だが、印鑑も押されており、法的効力をもつ可能性がある。 「恋愛感情が証明になったり、ならなかったり。まるで名探偵コナンの“蘭ねえちゃんは鈍感”理論ですね」 そう言ってサトウさんは苦笑い。僕はそれどころじゃない。恋文が契約書の補足になるなんて聞いたことがない。
恋文が語る過去の秘密
婚約破棄と土地の相続
依頼人の父は、昔ある女性と婚約していたが、突然の破談となったという。 理由は語られていなかったが、手紙によれば、破談は父の独断だったらしい。そして、贈るはずの土地だけが、無言で彼の元に残された。 まるで、恋の亡霊が土地にとり憑いたような話だ。
判子が押された真の意味
紙の右下には確かに印鑑がある。ただし、その女性のものかどうかは不明だった。 しかし、文末の「いつか君がこれを読む日が来るなら…」という一文が、真剣な想いを示していた。 判子は、恋文としての終止符ではなく、遺された人間への最後の責任だったのかもしれない。
突如消えた原本
鍵付き棚の不可解な解錠
次の日、原本が忽然と姿を消した。鍵は開いていた。誰かが夜のうちに事務所へ侵入したのか? だが防犯カメラには誰も映っていない。これはまるで怪盗キッドでも現れたかのような神出鬼没ぶりだ。 あんな派手なマントを羽織った奴じゃなく、もっと地味で狡猾なやつだろうけど。
不自然に動かされたファイル
サトウさんが棚の奥に差し込まれた1枚の紙を見つけた。原本のコピーだ。 誰かが本物を持ち出し、代わりにコピーだけ残した。つまり、本物が使われる“どこか”があるということだ。 それは登記か、それとも裁判か――。
やれやれ事件か恋か
残されたボールペンのインク
机の上には、使いかけのボールペンが一本。筆跡を比較すると、それが手紙のインクと一致する。 つまり、手紙は最近になって誰かが書き直した可能性がある。 「やれやれ、、、恋も契約も、どっちもややこしいな…」僕は天井を見上げながら、そうつぶやいた。
シンドウのうっかりが突破口に
実は僕、封筒を入れ違えていて、コピーの方を依頼人に渡してしまっていた。 だが、それが結果的に功を奏した。依頼人が提出しようとしていた“原本”がコピーだったと判明し、提出は差し戻し。 これで当分、事件にはならない。ただ、恋の方は…誰にも提出できなかったままだ。
夜の事務所での待ち伏せ
侵入者は誰か
僕とサトウさんで、夜の事務所に身を潜めてみた。案の定、侵入者が現れた。 それは依頼人の叔父だった。過去の恋の真相を知る唯一の人物であり、土地の“本当の権利者”に知られるのを恐れたという。 「私のものになるはずだった土地だ…あの女に渡すものか」――哀しいほどに、未練の濁った声だった。
サトウさんの一言で決着
「証拠は押収済みです、叔父さん」 サトウさんの鋭い一言に、男は観念した。なんと、サトウさんはこっそり原本をスキャンして保存していたのだ。 「備えあれば、愚問です」…彼女の名言集にまた一つ、ページが増えた。
恋は本物だったのか
隠された想いと土地の価値
恋文は、単なる過去の想いにとどまらなかった。そこには法を超える“意思”があった。 土地の価値などに負けず、愛情を信じた男の誓い。だがその誓いが、何も守らずに朽ちていくのは悲しい。 僕は、その手紙をそっと封筒に戻し、棚に仕舞った。
司法書士としての矜持
登記の真実は法で決まる。けれど、人の想いは紙の上だけでは計れない。 それを記録するのが司法書士の仕事なら、守るのは僕たちの“矜持”だ。 「やっぱり俺、地味にいい仕事してるよな…」などと、ひとり呟いてみたりもする。
翌朝の二人
コーヒーの湯気と沈黙
翌朝、事務所のコーヒーが妙に苦かった。 サトウさんは黙って新聞を読みながら、ふと呟いた。「恋文って、紙の無駄遣いじゃないんですか?」 それでも、その言葉にどこか優しさがにじんでいたように思えた。
恋文は再び封をされる
封筒はまた棚の奥に戻された。きっと、いつか誰かが再び開く日が来るのだろう。 そのとき、想いはもう一度、誰かの胸を打つかもしれない。 そう信じることにして、僕は棚をそっと閉じた。
そして書類棚は静かに
事件の終わりに残るもの
棚の中には、恋も契約も、たくさんの物語が眠っている。 僕はただ、それを少しだけ整理しただけだ。 次にどんな事件が舞い込むか、今はまだ知らない。
恋か記録かそれとも両方か
ふとサトウさんが言った。「シンドウさん、今度は私の分もちゃんと記録してくださいね」 「え、何を?」と聞き返すと、彼女はフンと鼻を鳴らして書類に目を落とした。 やれやれ、、、こっちの事件のほうが、よほど難解だ。