恋心未登記の真実
夏の終わり、事務所の扇風機がカラカラと音を立てていた。静寂と暑さと書類の山の中で、俺は一枚の登記申請書に目を通していた。 その時だった。「あの……婚姻による氏の変更を登記簿に反映させたいんです」と言った女性の声が、思いがけず記憶を揺さぶった。 その声は、昔、俺がほんの少しだけ本気で恋をした女性のものだった。
午後四時の登記申請
その日も暑かった。午後四時、いつものように窓口から回ってきた案件を確認するだけのルーチンワーク。 しかし、その申請書に記載された旧姓が、俺にとってただの「氏」ではなかった。 「川嶋芽衣」――まさか、と思ったが、記載された本籍地も生年月日も一致していた。
二人の視線は交わらなかった
サトウさんが無言で資料を差し出してきた。彼女の目が一瞬、俺の反応を測っているようだった。 「知ってるんですか」とは言わない。だが、空気が何かを問いかけている。 俺はうなずきもせず、目をそらし、ただ登記簿のページをめくった。
サトウさんの冷静すぎる推理
「この女性、婚姻届は出しているようですが、夫とは同居していない可能性がありますね」とサトウさんが言った。 「どうしてわかる?」と聞くと、「住所が別ですし、委任状がない。本人が一人で来たのも不自然です」と。 なるほど、彼女の観察力はたいしたものだ。コナンなら「それ、全部証拠付きで説明できる?」とか言いそうだ。
登記簿の間に挟まっていたもの
ページの間に小さな紙が挟まっていた。何かの控えかと思ったが、裏には手書きの文字が。 「私は、あの人を忘れられません」――それは職員への伝言でも、夫への言葉でもない気がした。 そして、俺はある出来事を思い出した。大学時代の文化祭。彼女が俺に言った言葉。
旧姓のままの彼女の名前
「婚姻しても、仕事上は旧姓で通したいんです」と当時から彼女は言っていた。 その一言がずっと印象に残っていたのに、何も言えなかった自分がいた。 今、この申請はそれを現実にしようとしているのか、それとも……。
シンドウのうっかりが引き寄せた疑念
書類を束ねるとき、つい手を滑らせて全部を床に落としてしまった。 サトウさんは溜息をつきつつ、しゃがんで一緒に拾ってくれた。 「…彼女の申請、通すんですか?」と、珍しく感情のこもった声だった。
恋愛感情と法的効力のズレ
結婚は登記ではない。だが、登記によって「証明」されることもある。 彼女は本当に結婚したのか? それとも何かを隠すための婚姻か? サトウさんの視線の先には、登記簿以上に複雑な人間模様が見えているようだった。
婚姻届の記載が意味するもの
婚姻の事実は市役所で確認できた。だが、相手は……どこかで聞いた名前だった。 司法書士として関与したことのある、あの軽薄な不動産業者。 俺は嫌な予感にかられた。
本人確認情報に映った他人の影
提出された本人確認書類のコピー。だが、そこに添えられていた身分証明には、違和感があった。 彼女の署名が、どこか硬い。まるで自分の意志ではないような。 そして、保証人の欄には、その男の筆跡が残っていた。
法務局のカウンターで交わされた嘘
彼女は、あえてこの登記を通すことで、何かから逃れようとしているのではないか。 もしくは、何かを終わらせようとしているのか。 そのどちらかであるとしか思えなかった。
意外な証人登場により動き出す謎
突然、法務局に現れたのは、彼女の妹を名乗る人物だった。 「姉は無理やり結婚させられたんです。父が借金の保証人になって…」 登記の申請には表れない、裏の事情が浮かび上がった。
サトウさんのささやかな優しさ
「司法書士って、書類に名前を載せるだけじゃないんですね」サトウさんがつぶやいた。 俺は思わず笑った。「おう、漫画でよくあるだろ。探偵が書類一枚で事件を解決するやつ」 「でも、うっかり屋さんには荷が重いかもしれませんね」と、彼女はくすっと笑った。
やれやれ、、、恋も登記も一筋縄ではいかない
結局、彼女の登記は保留にした。理由は形式不備――書類の一部に不備があるように見えたのだ。 俺の判断が正しかったかはわからない。でも、彼女の目に浮かんでいた涙を思えば、それで良かったのかもしれない。 「やれやれ、、、」俺は椅子にもたれて、扇風機の風を仰いだ。
失われた想いと未来への一歩
帰り際、サトウさんが言った。「あの人、もう一度来ますよ。きっと」 その言葉が、少しだけ心を軽くした。恋心は登記できない。だが、記憶には刻まれる。 そう思った時、俺の中で何かが整理された気がした。明日もまた、申請は届くだろう。