奇妙な依頼は一通の封筒から
午前中のコーヒーにありつく前に、机の上にぽつんと置かれた茶封筒に目が留まった。宛名も差出人もなく、ただ「至急」とだけ赤文字で書かれている。まるで探偵もののドラマの導入みたいな演出に、思わず「やれやれ、、、」とため息が漏れた。
中には、古びた証書のコピーと短い手紙が同封されていた。「この裏書を調べてください。相続人の一人が失踪しました」——サインもなく、まるで予告状のような文字だった。ルパンのつもりか。
依頼人の名も顔もわからない。だがこの地味な書類には、何か奇妙な気配が漂っていた。
午前十時 依頼人は口を濁した
10時きっかり、待合室に現れたのは七十代と思しき女性。身なりはきちんとしていたが、どこか落ち着かない様子で椅子に腰かけた。名乗らず、言葉も少ないまま「封筒を見たでしょう?」と問いかけてくる。
女性の話によれば、兄が数ヶ月前に亡くなり、遺産整理の過程で問題の証書が出てきたという。裏には走り書きで新たな相続人の名が加えられていたが、それが誰なのかも、なぜ書かれたのかも分からない。
「兄が生前、何か言っていませんでしたか?」と尋ねると、彼女はただ静かに首を振った。
サトウさんの冷静な視線
隣の机で話を聞いていたサトウさんが、何も言わずにコピーを受け取るとスキャナーにかけていた。その表情はいつものように無感情で、まるで推理漫画に出てくる天才助手のようだ。
「筆跡、ちょっと気になりますね」と彼女が呟く。小さな異変を見逃さない目、まるでキャッツアイの如き鋭さ。こっちは元野球部、見るのは直球だけだ。
裏書の筆跡は、表の署名とは微妙に異なっていた。けれどそれは、素人目にはわからないほどの微差だった。
古びた証書に隠されたもう一つの名前
登記簿を閲覧し、被相続人の過去の記録を洗っていく。すると十年前、ひとつの不動産名義が急に書き換えられていた記録に行き当たった。まるで何かを隠すように。
名義変更の理由は「贈与」。だが贈与契約書は見当たらない。証書の裏にある名前は、その時期と一致していた。
偶然だろうか。いや、偶然にしては話ができすぎている。
裏面の文字に宿る不穏な気配
「この走り書き、変ですね」と再びサトウさんが指摘した。「普通、証書の裏に相続のことを書くなんてありえません。これ、公証人の目も通ってませんし」
本来なら、こういう法的効力のある話は明文化された契約や公正証書を通すはず。それなのに、この裏書だけが孤立して存在していた。
筆跡の微妙なズレ。記録に残らない契約。それにしても、誰が何のためにこんな真似をしたのか。
元野球部の眼力が冴えるとき
机に広げた資料をにらみつけながら、ふと高校時代のスコアブックの癖を思い出した。あの時も、数字の書き方に違和感を覚えて偽造に気づいたことがあった。
今回も同じような感覚があった。数字の角度、字の重なり、ペン圧。これは——後から誰かが模倣したものだ。
「これ、兄じゃない」と私は告げた。依頼人の目が大きく見開かれた。
旧家の相続争いと失踪した兄
話を整理していくうちに、ある人物が浮上してきた。依頼人の弟、つまり失踪した兄の実子。長年勘当されていたが、何らかの理由で戻ってきた可能性がある。
そして、その実子が証書の裏に名前を書き加えた——そう考えると、すべてがつながる。遺産を受け取るために父を装い、偽造を試みた。
だが決定的な証拠がない。ただの推測では、事件としては立たない。
家系図に潜む嘘の線
役所の戸籍謄本を取り寄せた。そこに書かれた一行がすべてをひっくり返す。
「養子縁組届 平成18年付 記載あり」——兄は失踪した甥を養子にしていた。それも極秘裏に。
裏書は偽造ではなかった。彼は確かに相続人だったのだ。
サザエさんと異なる家族の温度差
「家族って、サザエさんみたいにはいかないんですね」と私がこぼすと、サトウさんは「当たり前でしょ」と言った。
ちゃぶ台を囲んで笑って終わる話なんて現実にはない。家庭とは、愛と嘘と秘密で構成された迷宮だ。
そして、その迷宮を解く鍵は——必ず過去のどこかにある。
やれやれ、、、本当の家族は厄介だ
兄の遺志は法的にも正しかった。ただ、それが誰にも知らされなかったという事実が、すべての混乱を招いた。
証書の裏の名前は、愛情の証だったのか。それとも罪滅ぼしだったのか。それはもう誰にもわからない。
私は書類を閉じて、椅子に深く座り直した。
解決後の静かな昼下がり
午後の陽光が事務所に差し込む。外ではセミが鳴き始めていた。サトウさんはコーヒーを淹れてくれたが、相変わらず無表情だ。
「今日は、いい仕事しましたね」と声をかけると、「まあまあですね」とだけ返された。塩対応もここまでくると清々しい。
やれやれ、、、今日も地味な一日だったが、それなりに意味のある一日だった。