朝の静寂と塩対応
いつも通りの朝だった。事務所のドアを開けると、パソコンのタイピング音だけが耳に届いた。 「おはよう」と声をかけたが、返事はない。耳が遠くなったわけじゃない。サトウさんは確かに、僕の声を聞いたはずだ。 それでも、彼女は顔を上げず、モニターを睨みながら手を止めなかった。
サトウさんが挨拶を返さなかった
まあ、いつもの塩対応だと自分に言い聞かせたが、何かが違った。空気が重い。 「怒ってるのか?昨日のコーヒー代立て替え忘れたせいか?」と冗談めかして話しかけるが、彼女の背筋は固いままだった。 あの完璧な姿勢が、逆に不穏な空気を醸し出していた。
メールの誤送信と封筒の謎
僕のスマホに、彼女からの未送信メールの下書きが転送されていた。送信ミスだろう。 件名は「至急確認」、本文は空白。ただし添付ファイルの名前は「No26_client.docx」。 うちの事務所でファイルに番号を振ることはない。それが最初の違和感だった。
依頼人の違和感
午前十時、背の高い男が訪ねてきた。身なりは整っていたが、汗を拭く仕草がやけに頻繁だった。 彼の依頼は、不動産の名義変更。理由は「贈与」。ただし書類には代理人名義が記されていた。 なのにその代理人がなぜか来所せず、本人確認書類も不鮮明だった。
午前十時の男が残したもの
男が帰った後、机の上に封筒が残されていた。誰も気づかないように、わざとらしく自然に置いていった形跡がある。 開封すると、中には契約書のコピーが2部と、やたら重いUSBがひとつ。 僕は思わず、「これ、サザエさんだったら波平がちゃぶ台ひっくり返すレベルだぞ」と口に出してしまった。
登記理由が腑に落ちない
贈与とは思えない資産移動だった。しかも名義が飛びすぎている。 不自然なタイミングで所有権移転が数件続いていた。まるで足跡を消すような手口。 「これはまさか、、、地面師?」と口にした時、サトウさんがようやくこちらを振り向いた。
沈黙の裏にあるもの
彼女は言葉を発しないまま、ゆっくりと僕にUSBを手渡してきた。 「開けたら危ないかもしれません」と目で訴えている気がした。 僕は頷き、事務所のPCには接続せず、古いノートPCを引っ張り出して開いた。
サトウさんのタイピングが止まった
彼女が黙ることはあっても、キーボードを止めることは稀だった。 それがこの日、完全に止まっていた。彼女の沈黙は、事務所の「異常気象」を示していた。 開いたUSBには、過去に処理した依頼のPDFコピーと、それに似た偽造されたデータが混在していた。
元データ消失とファイルNo26
例のファイル「No26_client.docx」はそこにはなかった。事務所のサーバーにも存在しない。 しかし履歴には確かに「No26」があった痕跡がある。まるで誰かが削除したあと、ゴミ箱ごと燃やしたようだ。 「やれやれ、、、面倒なことになってきた」と思わず呟いた。
昼休みの尾行劇
サトウさんが何も告げずに昼に出た。僕もこっそり追うことにした。 彼女は公園に向かい、ベンチに座る一人の女性と接触していた。 その様子はまるで、ルパン三世の峰不二子が情報屋に接触する場面のようだった。
公園のベンチと封筒の中身
彼女が手渡した封筒の中には、例の偽造書類の写しがあった。 相手の女性はそれを受け取り、すぐに立ち去った。サトウさんは背を向けたまま、僕の存在に気づいていたようだった。 あえて黙っていたのだ。司法書士としての倫理と、人間としての義理の間で。
彼女は誰かとメモを交換した
すれ違いざまに、彼女は誰かからメモを受け取っていた。内容はたった一行、「登記所へ報告済」 その瞬間、すべてがつながった。彼女は僕に知られず、すでに然るべき対応を取っていたのだ。 それが、彼女の沈黙の理由だった。
司法書士の勘と野球脳
野球部時代、相手のサイン盗みは反則だったが、パターンを読むのは得意だった。 この一件も、サインの読み違いで一歩遅れた感はあったが、逆転のチャンスは残っている。 僕はかつての四番打者よろしく、重い腰を上げた。
あの日のサイン盗みと重なる違和感
全体の流れは見えた。動機も手口も、そして犯人も。 ただ、まだ一つだけ証拠が足りない。それがあの「No26」の実体だった。 僕は法務局の保管端末に最後の望みをかけた。
法務局の控室で見た影
控室の端末ログに、朝の依頼人と同じIPアドレスからアクセスがあった。 しかもその時間、彼は僕の事務所にいたはず。 つまり、別人だった。代理人の名で来た彼は、偽名だったのだ。
やれやれ、、、のその先に
警察に連絡し、偽造書類とUSBの中身を提出した。 「よく気づきましたね」と言われたが、僕じゃない。気づいたのはサトウさんだった。 彼女の沈黙が、事務所を守ったのだ。
沈黙は守秘義務だった
彼女はあの朝、すでに事の重大さに気づき、軽々しく話すわけにはいかなかった。 司法書士事務所に勤める者として、沈黙こそが最大の告発だった。 僕がその意味を読み取れたのは、偶然ではなかった。たぶん。
サトウさんの一言と真相の構造
「遅かったですね」 それが、すべてが終わった後、彼女が初めて発した言葉だった。 僕は「やれやれ、、、」と肩をすくめ、次の書類に向き直った。
最後の登記と未送信のメール
サーバーに残された最後のログは、サトウさんが未送信のメールを書いていた痕跡だった。 「このままではいけない」――そのタイトルだけが残っていた。 本文はやはり、空白のままだった。
偽装された委任状の正体
あれは、過去の依頼を模した巧妙な偽造だった。しかも旧字体を混ぜて精巧に仕上げていた。 しかし日付が微妙に前後していた。 「昭和64年」があったことに気づいた瞬間、決着はついた。
シンドウ、少しだけカッコつける
「司法書士も悪くないな」 誰に言うでもなく呟いたその言葉に、サトウさんは薄く笑ったように見えた。 まあ、いつも通りの一日が戻ってくるのだろう。たぶん、また黙って。