遺留分は語る
始まりは一通の遺言書だった
春先、事務所のポストに無造作に投げ込まれた分厚い封筒。宛名の文字は達筆だが、どこか震えていた。差出人の名は、数日前に訃報を耳にしたばかりの山之内周三。添えられた手紙には「遺言書の件で相談に乗ってくれ」とあった。
僕はその封筒を机の上に置いたまま、しばらく目を閉じた。この手の話は、大抵ロクな結末にならない。
依頼人の震える声と白紙の覚書
翌日、山之内家の次男を名乗る青年が訪ねてきた。喪服姿で、手にはもう一通の封書を握りしめていた。「父の遺言が、まるで家族の誰かを隠すような内容なんです」そう言って差し出した書類には、財産のすべてを長女に譲る旨しか書かれていなかった。
「これ、コピーですか?」と訊くと、青年は首を振った。「いえ、原本です。でも…白紙の遺留分確認書もあったんです、誰かに書かせようとしていたのかもしれません」
相続人が一人多いという違和感
僕は家系図を書き出していたサトウさんの机に近づき、ちらっと覗き込んだ。そこには妙な違和感があった。長女、次男、三女――あれ? 何か数が合わない。
「ちょっと待ってください。戸籍上の記録と、遺言書に出てくる名前の数が一致してませんよ」サトウさんはパチンとペンを置き、腕を組んだ。「ええ。多いんです、ひとり」
サトウさんの視線が止まった場所
その晩、事務所に残ったサトウさんは、戸籍謄本の端にある旧姓に目を留めた。「ここの名前、読みは同じだけど、漢字が違います」その指摘に僕はうなった。なるほど、そこか。登記簿や保険証の表記と微妙にズレていたのだ。
それはまるで、サザエさんの登場人物がいつの間にか「波平」ではなく「波兵」にすり替わっているような違和感だった。
家庭裁判所の記録に潜む名前
翌日、家庭裁判所に出向いた僕は、閲覧記録の中にひっそりと「認知調停」の記録を見つけた。数十年前に終了しており、請求人は「山之内周三」。対象は「小泉理子」という、聞き覚えのない名だった。
サトウさんに伝えると、彼女は即座にスマホで古い住所を検索した。「この人、いま近所の団地に住んでます。郵便番号、一緒です」さすがだ。
被相続人が残したもう一つの「遺志」
団地を訪れると、そこには小さな庭に水をやる女性の姿があった。彼女は理子さん、山之内家の周三が若い頃に関係を持ち、認知したが籍は入れなかった娘だった。
「父からは、遺言があるとだけ聞いていました。でも、何も届かなくて……」彼女の目は潤んでいた。「あたし、ほんとうは欲しいわけじゃないんです。ただ、存在を否定されたみたいで」
封筒のシワが語る過去
遺言書の封筒を再度見直すと、押印の下にもう一重の印影がかすかに見えた。それは封印し直された証。つまり、誰かが一度開封し、中身を差し替えたということだ。
「やれやれ、、、まさか本当にコナン君みたいな展開になるとは」僕はため息をついた。封筒の折り目とインクの年代を調べると、違う時期のものが混在していた。つまり、遺言は改ざんされていたのだ。
本当の争点は遺留分ではなかった
財産の行方ではなく、「誰が家族と認められるか」。それこそがこの相続の争点だった。遺留分をきっかけに浮かび上がったのは、故人が生涯にわたり隠し続けた人間関係だった。
法律は公平をうたうが、感情の世界には境界線がない。僕は淡々と、しかし丁寧に調停書類をまとめていった。
家族の中にいたもう一人の「他人」
最終的に理子さんは、自ら相続放棄の意志を示した。けれどもその過程で、他の相続人たちも彼女の存在を受け入れざるを得なかった。なぜなら、山之内周三の遺志が、それを強く望んでいたからだ。
「他人だったけど、家族だった」そんな言葉が、長女の口から静かにこぼれたとき、少しだけ事務所の空気が柔らかくなった気がした。
サザエさん的家系図のトリック
「やっぱり家系図ってさ、波平が二人いたら成り立たないんですよ」とサトウさんがぽつりと漏らした。僕は笑いながらコーヒーを啜った。「でもその一人は、本当は裏の裏でずっと家族を見ていたのかもしれませんね」
それは、誰にも語られなかった家庭の物語。司法書士の仕事が、少しだけ探偵っぽく感じた瞬間だった。
登記簿に残らなかった長男の影
遺言の改ざんを指示したのは、実は長男だった。理子さんの存在を知り、父の遺志に反発したのだ。けれど彼もまた、心の奥底では家族を守りたかっただけかもしれない。
罪にはならない、しかし倫理には触れる。登記簿はその影を記さない。けれど、心の記録にはずっと刻まれていくだろう。
雪の日に書かれた遺言の秘密
改ざん前の遺言は、雪の積もった日付が記されていた。筆跡鑑定で明らかになったのは、その日に周三が理子さんの元を訪れていた記録。最期の冬、彼は家族全員に会いに行ったのだ。
そして、それぞれに手紙を渡し、記憶の中に居場所を残した。紙に残した遺言以上に、彼が残したものは深かった。
シンドウのうっかりが解く決定的証拠
ところで、僕が封筒を最初に見た時、逆さに置いていたことに気づいたのはだいぶ後だった。そこには、鉛筆で書かれた「理子へ渡してほしい」という一文が、かすかに残っていた。
「まさかそのうっかりが決め手とは」サトウさんに呆れられたが、まあ、僕らしいと言えば僕らしい。
真実と証明のあいだに立つもの
司法書士の仕事は、事実を証明することじゃない。けれど、そこに少しだけ真実の匂いを感じ取れるとき、人の人生に関われた気がする。
「今回もまた、証明できないものばかりが胸に残るね」僕は窓の外に目をやった。夕日が赤かった。
そして誰も訴えなかった
結局、誰も裁判を起こさなかった。遺言も遺産も分け合う形で落ち着いた。理子さんは静かに町を離れ、山之内家の家族写真にそっと寄せられた一枚の手紙だけが、棚に収められた。
この仕事、地味だけど、たまにはサスペンスになる。そんなことを思いながら、僕は次の相続相談に向かって机に向かうのだった。