債権者は誰もいなかった

債権者は誰もいなかった

謎の登記依頼とその違和感

朝9時、事務所の扉がカラカラと開いた。そこに立っていたのは、年の頃なら五十を少し過ぎた男性。古びたスーツに手帳ひとつを持ち、なんとも言えぬ影を纏っていた。 「不動産の債権者について相談が」と静かに言われた時、直感が働いた。これは、面倒なやつだ。 債権者不明と記された登記簿の写しを見せられた瞬間、その違和感は確信に変わった。

「債権者不明」と書かれた登記簿の一行

登記簿には確かに抵当権設定の記載がある。だが、その債権者欄には「不詳」と赤字で補記されていた。こんな表記は、あまり見たことがない。 依頼人は、相続登記を急いでいるというが、その前提となる抵当権の抹消手続きが進まない。なぜなら、債権者が誰かもわからないからだ。 どうやら、物件にまつわる履歴の一部が意図的に塗りつぶされているような気がした。

朝イチの電話とサトウさんの不機嫌

「朝からまた地雷ですか」 サトウさんがため息交じりに言う。彼女は感情を表に出さないが、忙しい時期に妙な依頼が入ると露骨に態度に出る。 「やれやれ、、、また面倒なのが来たな」俺がそうつぶやくと、サトウさんはノートPCをぱたんと閉じた。 「ところでこれ、債権者“いない”んじゃないですか?」その一言が、物語の扉を開いた。

依頼人の語らぬ事情

話を聞くほどに、依頼人の語る内容が曖昧なことに気づいた。登記の経緯も借用の詳細も記憶が不鮮明で、資料も出てこない。 「親父が勝手にやったことで……」と口ごもる姿からして、何かを隠しているのは明白だった。 「まぁ、親の借金を背負いたくないってのは、サザエさんのノリスケですら逃げ出すだろうな」と心の中で思った。

不動産はあるが相手がいない

対象の不動産は築三十年の古アパート。評価額は低いが、相続財産として無視するには惜しい。 問題は、そこに設定された抵当権。登記簿には金融機関名もない。管轄の法務局に問い合わせても、資料の一部は破棄されていた。 「相手がいなけりゃ、抹消できないんですよ」と俺が言うと、依頼人は顔をしかめた。

期限ギリギリの登記申請

どうやら、他の相続人がこの登記に異議を唱えようとしているらしい。急がないと、分割協議も振り出しに戻る。 「こういうのって、書類がきちんとしてないと全部パーですか?」と依頼人。 「当然です。『形式美』ってのは、登記の世界では命ですから」と、俺はなるべく優しく返した。

過去帳に消えた名義人

この債権者はどこへ消えたのか。図書館と市役所を回り、古い地番簿を調べることにした。 古びた紙に印字された名義に、かすかに残る印鑑の跡。手がかりは、そこにしかないように思えた。 古い抵当権の債権者欄には、個人名らしき文字列が読み取れた。だがその人物は、登記簿からも住民票からも、姿を消していた。

登記簿の裏を読む

登記情報提供サービスの履歴をさかのぼって、該当不動産の過去の所有者と取引履歴をすべて洗い出した。 中に一つだけ、妙な司法書士名義の申請があった。俺の事務所から電車で二駅の場所にある、今は無き事務所の名。 「これは、、、もしかして架空の債権者を仕立てて登記したのか?」まさかの展開に鳥肌が立った。

差出人のいない委任状

依頼人から預かった書類に、委任状が一通あった。そこには債権者と思しき名前と、達筆な署名。 だが印鑑がない。よく見ると、紙の端が裁断された跡がある。つまり、誰かの書類から一部を切り抜いて作った可能性がある。 「これは、、、ねつ造です」とサトウさんが冷静に断言した。

やれやれ、、、元野球部の推理

俺は壁に貼られた相関図を見つめながら、かつてのセンターライン守備を思い出していた。 流れてくる情報を、どう拾って処理するか。それはグラブさばきに似ている。ひとつ、ふたつと、脳内で情報を受け止める。 「債権者は最初から存在しなかったんですよ。つまりこれは……登記簿を利用した相続対策のつもりだったんです」

控え室でのひらめきと缶コーヒー

「これ、あの司法書士、依頼人の父親と仲が良かったらしいです」 サトウさんが出してきた一枚の写真。古い町会誌の切り抜きに二人の姿があった。 俺は缶コーヒーを開けながらつぶやいた。「やれやれ、、、そういう友情は登記に残すもんじゃない」

亡き債権者の名前が指し示すもの

判明したのは、債権者の名前が実在しないペンネームだったという事実。 彼らは生前、土地を守るために“架空の債権者”を設定したのだ。誰にも渡さないために。 しかしそれが、今になって問題となって浮かび上がったという皮肉だった。

サトウさんの冷たい一言と真実

「やっぱり嘘をつくと、書面に出ますね」 サトウさんが申請書類のチェックをしながら、ぽつりと漏らす。 たしかに、誰かが誤魔化そうとした痕跡は、書類の端々に滲み出ていた。

「その債権者、本当に存在してましたか」

この事件の本質はそこに尽きる。存在しない債権者、存在しない借金、それを信じてきた依頼人。 「たぶん、親父なりの遺産防衛策だったんです」依頼人がそう漏らした時、少しだけ、彼を哀れに思った。 「まぁ、それでも登記は事実を刻むもんです」と俺は言った。

司法書士としての最後の一押し

法務局へ提出した書類は、すべて訂正済み。架空の債権者の削除と、正しい相続人への名義移転。 「今回の件、どこにも記録は残りませんが」 「それでも、心のどこかには残ってます」と依頼人は微笑んだ。

登記簿に刻まれた結末

やがて登記が完了し、新しい名義で謄本が発行された。 そこには、何もなかったかのように、シンプルに名前が記されていた。 けれど俺の中には、確かに一人の「いなかった債権者」の存在が刻まれていた。

名義の迷宮が語った遺志

書面という迷宮の中にこそ、人の想いは眠っている。 その思いが、たとえ偽りであっても、誰かに引き継がれていく。 そう信じることでしか、司法書士という仕事は続けられない。

誰もいない債権者欄に僕は何を見たか

空欄はただの空欄ではない。誰かがそこに名前を書こうとして、書けなかった記憶の跡だ。 俺はそこに、一人の親父の“防衛線”を見た気がした。 やれやれ、、、書かれなかった名前ほど、語るものが多い。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓