朱に染まる契約書
朝一番の依頼人は喪服の女だった
まだコーヒーに口もつけていない朝八時五分、事務所のチャイムが鳴った。玄関に立っていたのは黒の喪服に身を包んだ女性。目元にはうっすら涙の跡が見えたが、口元は固く閉じられ、覚悟を決めた顔つきだった。
「父が亡くなりまして、相続の手続きをお願いしたいんです」と彼女は言った。ああ、今日もまた相続登記か――シンドウは小さくため息をついた。
雨に滲んだ登記識別情報通知
差し出された封筒の中には登記識別情報通知と遺言書のコピー、印鑑証明書が入っていた。雨で濡れていたのか、識別情報の一部がぼやけていたが、読めないわけではない。
しかし、違和感があった。書類は完璧に見えたが、あまりにも整いすぎている。司法書士としての勘が、どこかざわついていた。
シンドウのぼやきとサトウさんの冷たい視線
「これだけ揃ってるなら、自分でやっても良さそうなもんだけどなぁ……」とシンドウが呟くと、サトウさんがピシャリと返す。
「それを言ったら私たちの仕事がなくなります。無駄口叩く前に確認してください」
やれやれ、、、とシンドウは肩をすくめた。彼女の言葉はいつも正しいが、もう少し優しくてもいいのにとは思う。
遺言書に押された違和感のある印影
目を凝らして遺言書を見る。たしかに被相続人の実印が押されているが、その朱肉の濃さがどこか不自然だった。押印の勢いも弱い。
「これ、朱肉じゃなくてスタンプ台じゃないか?」とシンドウは呟いた。そう指摘すると、サトウさんがすぐさまルーペを取り出した。
元野球部の勘が働いた瞬間
「昔、監督のサインを真似して仮病で休んだことがあってね…」と回想するシンドウに、サトウさんは呆れた目を向けた。だが、その経験が活きたのかもしれない。
押印の角度、インクのノリ、印影の僅かなズレ――すべてが「作られた印鑑」を示していた。
被相続人が生前に残したもう一つの契約書
古いファイルの山をあさると、2年前に作成された預かり契約書が見つかった。そこにあった印影は、今回の遺言書のものとはまるで異なる。
「やっぱりおかしい…これ、本人の実印じゃない」とシンドウは呟く。サトウさんの目が鋭くなった。「偽造ですね」
サザエさんの波平方式にヒントを得る
「サザエさんでさ、波平の髪が一本足りないだけで本人じゃないって言われてた回、覚えてるか?」シンドウの唐突な話にサトウさんは呆れた顔をした。
「つまり、印影も一本線が違えばそれは別人の証明になるってことよ」
「波平の毛一本と遺産の行方を一緒にしないでください」とサトウさんは冷たく返すが、その目は笑っていた。
「この印鑑証明書、日付が変ですね」
印鑑証明書の日付は1週間前。しかし、被相続人はその時点ですでに入院中で、面会も禁止されていたはず。どうやって区役所に行ったのか?
「つまりこれは、別人がなりすまして取った可能性がある」とサトウさんが静かに告げる。
サトウさんの指摘と一枚の登記簿
登記簿を確認すると、過去に同姓同名で同一住所を使った登記申請が存在していた。それは十年前の事件だった。
「まさか、再利用されたんじゃ……?」とシンドウが呟く。
怪しい同姓同名の存在
旧知の法務局職員に調べてもらうと、なんと全く関係のない同姓同名の人物が印鑑登録をしていた記録が浮かび上がった。
そこに使われた写真付き本人確認書類も、顔写真が不鮮明なまま登録されていた。
シンドウが走った法務局の午後
「これはやばい、差し押さえされる前に手を打たないと」とシンドウは久々に本気で走った。ゼエゼエ息を切らしながら法務局に飛び込んだ。
登記の受付前に差止め申請を間に合わせ、事なきを得た。
やれやれ、、、朱肉の中に潜む殺意か
事務所に戻ったシンドウは、ようやく椅子に腰を下ろした。「まったく、朱肉の色で事件が起きるとはな……」
「殺意を押すには、スタンプ台じゃ軽すぎたんでしょうね」とサトウさんが言い放った。
捺印された偽造の真相とその動機
後日、遺言書を偽造していたのは、依頼人の異母兄だったことが明らかになった。相続人の座を奪うため、身内を利用してなりすましを働いたのだ。
しかしシンドウの「印影の勘」と、サトウさんの「塩対応」ならぬ「鋭対応」がすべてを見抜いた。
全ては共有名義を悪用する計画だった
不動産の名義を生前に共有化させ、その後相手を偽造文書で登記から外す――よくあるが、見過ごせない犯罪だ。
「また一つ、法のスキマを突いた悪知恵か」とシンドウはぼやいた。
サトウさんの塩対応とわずかな微笑み
報告書をまとめながら、サトウさんが小さく「お疲れさまでした」と言った。それだけで、妙に報われた気がした。
「たまには、褒めてくれてもいいんだけどな」とシンドウが言うと、「じゃあ、今度から朱肉の検査もお願いします」と返された。
一件落着そして残る朱肉の跡
事件は解決し、不正登記は未然に防がれた。依頼人の涙も、今度は本物だった。
シンドウは静かに朱肉の蓋を閉じた。だがその赤は、まだ何かを語ろうとしているように見えた。