登記相談に現れた無言の男
月曜の午前十時、雨が降り出しそうな空の下、事務所の扉が重く開いた。無言のまま入ってきたスーツ姿の中年男は、名乗りもせず椅子に座ると、封筒を差し出した。
封筒の中には登記申請に必要な書類一式があった。だが、肝心の「登記原因」の記載がない。しかも男はそれについて一言も語ろうとしないのだった。
登記原因を問うと彼は目を逸らした
「あの……この書類、登記原因が抜けてますね」私はそう言いながら、男の目を覗き込んだ。だが彼は私と視線を合わせようとしなかった。
「……そこは書かなくていいんで」小さく漏らしたその言葉に、私は眉をひそめた。まるで刑事ドラマの容疑者みたいじゃないか。
シンドウの勘が騒ぎ出す
やれやれ、、、嫌な予感しかしない。登記の依頼で原因を隠す人間に、ロクな奴はいない。私は書類の隅にある筆跡のかすれを指でなぞった。
「こういうの、サザエさんだったら波平さんがすぐ怒鳴るだろうな」と独り言のように呟いてみる。男の無表情はピクリとも動かない。
過去の登記簿からにじむ違和感
事務所の片隅、パソコンの画面に古い登記簿のデータを表示する。見ると、現在の所有者と一筆前の名義人が一致していないようだ。
いったん抹消された抵当権の記録も、妙に中途半端に終わっている。誰かが意図的に何かを消しているような、そんな印象が漂っていた。
サトウさんの淡々とした調査開始
「こっちで過去の閉鎖登記簿、見てみますね」サトウさんはそう言うと、淡々とキーボードを叩き始めた。
その目の鋭さは、まるで怪盗キッドのトリックを暴く探偵のようだ。私はただ、机に肘をついて見守るしかなかった。
所有権移転に見えないもう一つの理由
彼女が突き止めたのは、三年前に失踪したある男の名前だった。失踪届は出されていないが、その人物は過去にこの物件の所有者だった。
「もしかして、これって……売買じゃなくて、相続放棄の偽装?」私が呟くと、サトウさんは無言で頷いた。
消された契約書の痕跡
封筒の中の書類に、微かに消し跡が残っていた。ペンで書かれた痕を無理やり消した形跡。特殊な光を当てると、そこには「贈与」の文字が浮かび上がった。
なぜ贈与を消した? なぜ売買に見せかけた? この依頼人、ただの不動産トラブルでは済まなさそうだ。
司法書士が気付く小さな矛盾
書類には連絡先も不自然な点があった。住所の番地がひと桁違っているのだ。しかも訂正印もなし。
「細かいようだけど、これって誰かの指示で書き換えられた可能性が高いです」私はまた、厄介な仕事を引き受けたことを後悔し始めていた。
元地主との接触
私は町外れの農道沿いにある元地主の家を訪ねた。そこには、年老いた父親が一人で暮らしていた。
「ああ、あの土地? 本当は息子に譲るはずだったんだけどね……あの子、今はどこにいるのかもわからん」
サトウさんが突き止めた事実
帰ってくると、サトウさんはすでにひとつの結論にたどり着いていた。古い登記情報に、今回の依頼人と同姓同名の「兄」が記載されていたのだ。
「つまりこうです。あの依頼人は、兄の財産を横取りしようとしてる。贈与契約を偽装し、売買にすり替えて。」
手書きで残された前回の登記申請書
前回の登記申請書には、手書きで兄の署名があった。だが筆跡鑑定の結果、それは依頼人本人のものである可能性が高かった。
司法書士として、それを見過ごすわけにはいかない。
空白になったはずの第三者の名前
登記原本のコピーに、かすれた字で「ハヤミ」の文字が読めた。依頼人の元妻の旧姓と一致する。
ここまで来れば、もう黙って処理するわけにはいかない。
男が語らなかった理由
私は男を再び呼び出し、正面から問うた。「あなたが隠したかったのは、兄の死ですか? それとも元妻の関与ですか?」
男はうなだれながら、「どっちも……です」とだけ答えた。
暴かれる家庭の事情と金銭トラブル
話を聞けば、兄はすでに亡くなっていたが、死亡届も出されていなかった。元妻との間にあった多額の借金も、遺産をめぐるトラブルを複雑にしていた。
「だから、黙って登記だけ済ませようと……すみませんでした……」
登記原因を「語れなかった」真実
語らなかったのではない。語れなかったのだ。司法書士は事実だけを記録する。でも、それは人の心の闇までは記録できない。
私は書類を閉じ、静かに言った。「この登記は、受けられません」
法の網の目をすり抜ける計画
男の狙いは、兄が死んだことを伏せたまま、自分名義にすること。だが、それでは法の信頼を裏切ることになる。
やれやれ、、、結局、最後までこういう依頼が一番手間がかかる。
依頼は偽装譲渡か、それとも遺産隠し?
法的には立件が難しいケースかもしれない。だが、登記のプロとしては見逃せない。
私は管轄の法務局と、弁護士にも連絡を入れた。
元野球部のカンが決め手に
「あの男、左利きだったのに署名は右手でしたよ」私の何気ない一言に、サトウさんが驚いた顔をした。
「……そこに気づくとは、やっぱりうっかりしてるけど、最後は活躍しますね、センパイ」
登記申請書の訂正と告発の準備
私は申請書を訂正し、不受理の記録を加えた。法務局にも報告し、今後の対応を依頼する。
人の人生を左右する登記。だからこそ、慎重でなければならない。
シンドウが筆をとる
記録簿に経緯を書き加えながら、私はひとつ深呼吸をした。登記には、語られない物語が詰まっている。
だからこそ、司法書士の目と手が必要なのだ。
やれやれ、、、ようやく繋がった
兄と弟、元妻と借金、偽装と贈与。全部が繋がって、ようやく一枚の紙に落ち着いた。
それでも、誰も本当に救われたとは言い難い。
男が最後に残した一言
「登記って……怖いですね」と、男は小さく呟いた。
私は答えなかった。代わりに、机の上の申請書を指で軽く叩いた。
真相は全て過去に置いてきた
真実を記録すること。それが私たち司法書士の役目だ。
でも、そこに至るまでの「嘘」や「ごまかし」は、人の数だけある。
サトウさんの視線が冷たい
「センパイ、もう少し最初から警戒してください」サトウさんはため息交じりに言った。
私は反論できず、ただ笑ってお茶をすするだけだった。
登記の真実は紙の中に
記録された情報はただの事実。しかし、その裏には感情や計算が隠れている。
私は今日も、それを読み解くのだ。
正確な登記と冷たい現実
司法書士の世界に、情けは通用しない。でも、無視もできない。
だから今日も、私はここで書類と向き合う。
誰のための登記だったのか
あの男のためではない。亡くなった兄のためでもない。おそらく、誰のためでもなかった。
でも、それが今の時代の現実なのかもしれない。
シンドウのつぶやきと次の依頼人
「……さて、次はどんな登記が来るかな」私は机に手を置き、背筋を伸ばした。
事務所の扉が、またギイと音を立てて開く。
登記簿には書けない人間の事情
紙には書けない真実がある。人間の弱さも、ずるさも、優しさも。
司法書士の仕事は、それを見抜き、整理することだ。
今日もまた、静かに事件は始まる
書類を一枚めくったとき、すでに物語は始まっている。探偵でも警察でもない、司法書士の事件簿は。
やれやれ、、、今日もまた、一日が始まった。