朝の静けさに潜む違和感
忘れ物か故意か
朝一番、私はいつものように事務所に着き、コーヒーを淹れてから会議室の電気をつけた。そこには、白い封筒がぽつんと一つ、机の上に置かれていた。差出人名もなければ、宛名も書かれていない。ただの事務用品とは思えない重みがあった。
中を確認すると、そこには登記識別情報通知書が一枚だけ入っていた。依頼人の名前、物件の所在地、登記完了年月日。どう考えても、昨日処理を終えたばかりの案件の書類だった。しかし、私はそれをまだ手渡していない。誰が、どこから、なぜ置いていったのか。
いきなり朝から脳がフル回転するような事態に、私は嫌な汗をかきながら封筒を見つめていた。
封筒の中身とその意味
登記識別情報通知書は、いわば不動産の鍵に等しい。もし悪意のある第三者の手に渡れば、偽造や詐取に利用されかねない。しかも今回は、依頼人である西谷という男が妙に急かしていた案件だった。
彼は「早く手元に欲しい」としきりに言っていたが、昨夕の段階では受け渡し日時も確定していなかった。にもかかわらず、なぜこの紙がここにあるのか。その矛盾が、朝の静けさの中に不気味に響いていた。
封筒を手に、私は無意識にサトウさんを呼んでいた。
サトウさんの冷たい視線
机上に残された痕跡
サトウさんは静かに会議室に入ってきて、封筒を見た瞬間にピクリと眉を動かした。それだけで、何かに気づいたのだろう。私は思わず「心当たり、あるか?」と聞いてしまった。
「昨日、誰かが勝手にここを使った形跡がありました。椅子の位置が違いましたし、机の端に指紋のような汚れが残っていました」サトウさんは淡々と語る。まるでルパン三世の峰不二子のようなクールさで。
「つまり、誰かがこっそりここに忍び込んで、これを置いていったってことか?」私は自分の言葉に戦慄した。
誰が最後に会議室を出たのか
事務所の鍵は私とサトウさん、そして唯一、補助者として出入りを許している元同僚の山口にしか渡していない。昨日最後に会議室を使ったのは、確かに山口だった。
私は山口に電話をかけた。「あのさ、昨日会議室に何か忘れてないか?」と探ると、山口は一瞬沈黙した。「いや、何も……いや、ちょっと待って。もしかするとカバンの中に入ってた書類を……」
うっかりだな、と笑って済ませるにはあまりにタイミングが悪すぎる。私は既に、背後に何か別の影を感じていた。
依頼人との不協和音
登記完了通知のタイミング
登記が完了したのは一昨日。私が法務局から通知を受け取ったのは昨日の午前。その後、書類を整理していたが、渡しの予定は来週に設定していた。
なのに依頼人の西谷は「昨日、そちらに取りに行ったけど留守だった」と言う。留守どころか、私は夕方まで事務所にいた。西谷の話は、嘘か、あるいは誰かと勘違いしている。
「会議室にいたのは誰ですか? 背の高い男性で、灰色のスーツを着てました」そう語る西谷の言葉が、また別の疑惑を呼ぶことになった。
意図された紛失の可能性
灰色のスーツ——それは、山口がよく着ていたやつだ。ただし昨日は、違った色のジャケットだったはず。つまり、西谷が会った「誰か」は、山口に偽装していた可能性がある。
いや待て、そもそも本当に「誰か」が来たのか? 西谷が嘘をついている可能性もある。わざと訪問を偽り、誰かに書類を奪わせたのではないか。
私は再び封筒を見つめ、「この中身が本物である保証はどこにもない」と自分に言い聞かせた。
古い知人からの一本の電話
過去の事件との接点
昼過ぎ、法務局時代の先輩・上村から電話が入った。「シンドウ、変な問い合わせがあってさ。昨日、お前の事務所で完了した登記の番号、誰かが照会かけてきたんだよ」
「依頼人か?」と聞くと、上村は「いや、そうは名乗ってない」と言う。妙な話だ。登記識別情報が欲しい人間が、別ルートで照会をかけていた可能性がある。
私は背筋が冷えた。今回の事件は、うっかりミスの顔をして、深く仕組まれた策略かもしれない。
司法書士の勘と野球部の根性
「やれやれ、、、」と思わず声が漏れた。自分がトラブルの中心にいるのは慣れているが、毎度こういう展開になると胃がもたない。けれど、昔野球部で鍛えた勘としつこさだけはまだ錆びついていない。
私は西谷にもう一度会うことにした。喫茶店で向き合い、質問を続けると、彼はついに口を滑らせた。「……あの人が、登記識別情報は不要になる制度に変わるって言ってたから」
「あの人」が誰なのかは、聞くまでもなかった。
再び封筒が現れた時
コピー用紙の裏に書かれた一文
夜、事務所のポストに同じ封筒が投げ込まれていた。開けてみると、中には例の通知とともに、コピー用紙の裏に走り書きがあった。
「これは返しておく。悪用はしていない」
私はそれを見て、誰がやったのか、確信した。山口——彼は昔、司法試験浪人だったが、今は別の道を歩んでいた。けれど、その道で行き詰まり、つい魔が差したのだろう。
「やれやれ、、、」の一言とともに
「やれやれ、、、本当に、昔の仲間ってのは始末に困るな」私はそう呟いて、封筒を机に戻した。サトウさんが後ろから一言、「警察には連絡しないんですか?」
「ああ、今のところはな。次やったら、野球部流の鉄拳制裁が飛ぶって伝えておけ」
サトウさんはため息ひとつ、「くだらないですね」と言いながらも、コーヒーを差し出してくれた。夜はまだ、長かった。