静けさの中の不協和音
朝の空気はやけに澄んでいた。だが、郵便受けに差し込まれていた封筒は、そんな静けさに似つかわしくない内容だった。差出人不明の投書、それも管理組合からの封筒に紛れて。
「共有部分が侵されている」──その一文だけが太字で強調されていた。ふざけた悪戯かと思ったが、マンション管理組合の理事長は真剣な顔だった。
「司法書士の先生、あなたにしか頼めないんです。入居者の一人が、掲示板のスペースに鍵付きの棚を取り付けてしまいまして…」
マンション管理組合からの依頼
理事会のメンバーは疲れた表情で机を囲んでいた。議事録には「共有部分の私物化に関する意見分裂」と書かれている。
「以前もゴルフバッグを共有廊下に置いた人がいて揉めたんですよ」一人がため息交じりに言う。「でも今回は棚です。しかも固定されてる。どう考えてもおかしい」
私はうなずきながらメモを取り、事件というよりも地味な争いだな、と内心思った。だが、争いの影にはいつも人間の感情が渦巻いている。
匿名の投書に書かれた不審な記述
問題の投書には、鍵付きの棚のほかにも気になる一文があった。「あの壁の向こうには、もう一つの秘密がある」
抽象的な表現ではあったが、妙に引っかかった。投書の文体にはある種の執念が滲んでいた。サザエさんなら「カツオのいたずらだねえ」と笑って済むかもしれないが、現実はそうもいかない。
私は棚の写真をスマホで撮りながら、壁に耳を当てた。…何も聞こえない。ただ、石膏ボードにしては音の響きが妙に鈍い。
サトウさんの分析は冷静だった
「壁の厚み、変ですね」サトウさんが淡々と指摘した。「この棚、ただの目隠しじゃなくて、何かを隠してる可能性あります」
私が彼女にスマホの画像を送ると、すでに登記簿と建築図面を突き合わせていた。「この部分、本来は収納スペースになっていたはずです。でも現況では壁になっている」
やれやれ、、、また変なことに巻き込まれたなと私はため息をついた。だが、好奇心が勝ってしまうのが私の性分らしい。
居住者リストと鍵の使用履歴
管理人に聞いてみると、棚の鍵は誰も持っていないと言う。居住者リストを見ると、問題の棚がある階に住んでいるのはたった3世帯。
その中で、最近急に引っ越してきた人物がいた。「転勤で戻ってきた」と説明していたらしいが、履歴を見る限り、前に住んでいた履歴が確認できなかった。
私はその人物──山之内という男の名前を控え、元所有者の登記履歴と照らし合わせた。
防犯カメラが映さなかった真実
防犯カメラの映像には、深夜に棚に手を加えている人影が映っていた。だが、顔ははっきり映っていない。
その人影は、まるでルパン三世のように手慣れた動きでネジを外し、棚の内部に何かを置いていた。何をしていたのかはわからないが、ただの物置ではないのは明らかだった。
「あの動き、素人じゃないですね」サトウさんがぼそりと言う。「あえて見えないところに証拠を隠す、よくあるやり口ですよ」
奇妙な区分所有者の主張
山之内は堂々と言った。「この棚は私の専有部分の延長です。壁の内側の空間も私のものですから」
無理がある。その根拠を尋ねると、彼は笑った。「実は、前所有者からある契約書を引き継いでいてね。それには明確に書かれていたんです」
私はそのコピーを受け取り、目を通した。確かに“収納スペースの占有権”と書かれていたが、そこにはもう一つ気になる文言が添えられていた。
「あの壁は私のものだ」
契約書の一文には、こうも書かれていた。「西側の壁面の奥行き部分については、専有とみなす」
だが、その壁は共有部分として登記されている。つまり、契約と登記が食い違っているのだ。
「これは、司法書士として見過ごせませんね」私の口調は自然と硬くなった。
専有部分と共有部分の境界
境界の認定は極めて繊細だ。特に区分所有建物では、壁の内側が共有部分か専有部分かでトラブルになる。
登記簿を確認すると、その壁は建物全体の構造に含まれるものとして共有扱い。つまり、いかなる契約があっても、それを専有と主張するには限界がある。
私は山之内に説明した。「たとえ文言があっても、登記上それは無効。あの棚は撤去されるべきです」
やれやれ、、、気づくのが遅かったか
その瞬間、山之内の顔が歪んだ。「じゃあ……あの中身はどうなるんですか」
彼はとうとう観念したように合鍵を差し出した。棚の中には──何と、他の入居者の個人情報を盗撮した記録が入っていた。
録音、録画データのほか、郵便物の控えなども保管されていた。まるで現代版の怪盗キッドが住んでいたかのようだ。
不動産登記の盲点
私は警察への通報を手配しつつ、登記の重要性を改めて噛みしめていた。たった数センチの壁の奥に、これほどの闇が隠れていたとは。
「登記ってのはな、物理的な境界を守るだけじゃない。人間の善悪の境界も示すものなんだよ」
サトウさんが珍しく黙ってうなずいていた。
契約書に潜んでいたもう一つの印影
後日、契約書に添えられていた押印の一つが偽造だったことが判明した。前所有者の署名は真っ赤な偽物。
山之内は、空室になった部屋を“買ったふり”をして入り込んでいた詐欺師だったのだ。誰も本当の前居住者を知らなかったことが、盲点だった。
私は心底疲れながら、また一つ、区分所有の闇を垣間見た思いだった。
崩れた信頼と壊れた掲示板
棚は撤去され、掲示板は新しく設置されたが、誰もそれを見ようとはしなかった。
住民たちは、お互いに視線を合わせることも減り、会釈もぎこちなくなっていた。
やれやれ、、、この仕事、地味なようで厄介だ。
告発は誰のためだったのか
最後に残された謎は、最初の投書の主だった。筆跡から推測するに、理事の一人だった可能性が高い。
でも私はその名前を口に出すことはしなかった。正義というのは、時に誰かの臆病な勇気によって守られているのだ。
サトウさんがぽつりと言った。「先生、もう少し生活感のある事件を持ってきてください」
シンドウの一手が導いた結末
私は笑って首をすくめた。「次は猫の登記でもやるかな」
そう言って事務所の扉を閉めた。午後の日差しが、やけにまぶしかった。
そして、今日もまた、誰かの「境界線」を守るために、シンドウは書類に向かうのだった。