拾われた婚姻届の行方
八月のある朝、僕はいつものように早めに事務所に向かっていた。途中、町役場の前を通ると、植え込みの下に紙が一枚、風にひらひらと舞っているのが見えた。何気なく拾い上げると、それはなんと、婚姻届だった。
提出前のものか、提出後のものか。名前も書かれているし、印鑑も押されている。けれど、なにか妙な違和感がある。その違和感が、一日をとんでもない方向へと導いていくのだった。
役所前の朝七時
役所の建物が開くのは八時半だ。まだ人通りも少ない時間帯で、婚姻届がこんな場所に落ちていること自体、普通ではない。封筒も何もなく、むき出しのまま、まるで「誰かに見つけてほしい」とでも言いたげにそこにあった。
「見つけちゃったからには、届けなきゃだよなあ…」とぼやきながら、ポケットにねじ込んだその瞬間、背後から低い声がした。「それ、どうするつもりですか?」振り向くと、朝の散歩中らしき老婦人がじっと僕を見ていた。
書類一枚から始まる違和感
「お届け先は役所でしょうねぇ」と老婦人は言って立ち去った。いや、そのつもりではあったのだが、司法書士という性分がそれをすんなり許してくれない。表記された住所、名前、そして印影。見れば見るほど気になって仕方ない。
それに、証人欄が一つだけ埋まっていて、もう一つは空欄だった。まるで何かを訴えているかのように。その場でスマホを取り出し、記載された氏名で登記簿を検索した。するとそこには、見覚えのある名前が浮かび上がってきた。
サトウさんの冷たい推理
事務所に戻ると、すでにサトウさんがコーヒーを飲みながらPCを立ち上げていた。事情を説明すると、「また変なの拾ってきましたね」と眉一つ動かさずに言い放った。だが、画面を覗き込むと、彼女の目が一瞬鋭くなった。
「この名前、あの裁判沙汰の依頼人ですよね。確か、婚約破棄のトラブルで揉めてた人」言われてみればそうだった。数ヶ月前、慰謝料請求の手続きで関わったばかりだ。婚姻届の新郎欄にその男の名があった。
婚姻届に記された名前
しかし、新婦欄に書かれている名前は、その時の婚約者とは違う人物だった。漢字が似ているが、別人だ。これがうっかりミスなら笑い話だが、印鑑はしっかり押されている。印影の一致を確認して、さらに背筋が寒くなった。
「まさか、本当に提出されるつもりだったのか?」僕が声を漏らすと、サトウさんは「いや、捨てられてるってことは提出しないつもりだったか、できなかったかでしょうね」と冷静に返してきた。塩対応にもほどがある。
新郎欄の名前が語るもの
過去に僕が関わった案件の中でも、この男は特に自己中心的で、支払いも渋り、女性への態度も最悪だった。それが婚姻届を出そうとしていた?信じがたかったが、現実にその名は書かれている。
登記記録を見ると、彼は最近、別名義のマンションを購入していた。名義は今回の新婦欄に記された女性のもの。これは偶然なのか、それともなにかの計画か。少なくとも、ただの失恋では済まなそうだった。
消えた届出人を追え
僕は、婚姻届に書かれた住所を訪ねてみることにした。地方の古いアパート、郵便受けには女性の名前があった。何度かインターホンを鳴らすが、応答はない。隣人に尋ねると「ここ数日見てない」とのことだった。
不安が胸に広がる。サザエさん的な平和な日常なら「勘違いでした〜」で済む話だが、これは明らかに違う匂いがする。まるで、どこかで誰かが口封じでもされたような…そんな妄想すら頭をよぎった。
登記簿に残る前歴
サトウさんが過去の登記を洗い直してくれていた。「この新婦、前に共同名義で住宅ローン組んでますね。相手は別人。しかも離婚歴もある」つまり、二重契約や詐欺的な何かが動いている可能性があるということか。
どちらが仕掛け、どちらが被害者かはまだ分からない。ただ、婚姻届がゴミのように捨てられていたという事実だけが、異常性を物語っていた。「この件、もう少し掘りますか?」とサトウさんが尋ねた。
元恋人という証言
僕は旧依頼人のもとを訪れた。「ああ、その子ね。あれ、俺の元カノだよ」と軽々しく言い放つ彼に、怒りすら覚えた。どうやら、彼は婚姻届を使って女性にマンションを買わせた後、さっさと関係を切ったらしい。
だが、捨てられたのは婚姻届ではなかった。女の人生そのものだったのかもしれない。「やれやれ、、、ほんとに下衆な話だな」と思わず口から漏れた。まるで、怪盗キッドが盗んでいったのはダイヤじゃなくて、心そのものみたいだった。
サザエさん方式の謎解き会議
その夜、事務所でサトウさんと再び作戦会議。まるでサザエさん一家の茶の間で「タラちゃんどうするの!?」と騒いでるノリだが、こっちは婚姻届と財産が絡む現実の泥仕合だ。笑えない。
「このまま放っておいたら、また誰かが同じ被害に遭いますね」とサトウさん。「警察に通報ですか?」「いえ、まずは弁護士経由で通告。それと不動産会社に事情説明です」しっかり者の参謀がいなければ、とっくに投了していた。
赤い糸より赤いインク
翌朝、婚姻届を封筒に入れ、記録として保管した。「赤い糸」とはよく言ったものだが、ここにあるのは、赤い印鑑のインクだけだった。誰かの意思が込められていたようでいて、そこには空虚しかない。
「サトウさん、結婚ってなんなんでしょうね」ぼそっとつぶやくと、「私に聞かないでください。まだ一度も提出してませんから」と返ってきた。まったくもって、塩対応だ。
過去に提出されたもう一枚
調査の結果、同じ名前の女性が数年前にも別の男性と婚姻届を出していた記録が見つかった。が、それは受理されずに却下されていた。理由は「婚姻意思の不存在」。これで二度目。まるで婚姻届マニアみたいだ。
その女性が何を求めていたのか。愛なのか、保証なのか、名義なのか。僕には分からない。けれど、そのたびに人生をリセットされるような生き方に、胸が痛くなった。もしかして、この届は彼女の最後の叫びだったのかもしれない。
サトウさんの直感と証拠
サトウさんは筆跡鑑定を手配し、届出人欄の署名と、過去の本人直筆文書と照合させた。「やっぱり、彼女の字じゃないです。これ、誰かが書いた偽造です」冷ややかな声に、背筋が凍った。
つまりこれは、書類偽造による不動産詐欺の証拠。警察へ通報したことで、ようやく動き出した事件の真相が明るみに出始めた。婚姻届は、犯罪の道具だったのだ。
午後四時の結婚相談所
その日、僕は久しぶりに結婚相談所の前を通った。なんの因果か、以前相談に行ったことがあるが、全然成果はなかった。婚姻届を偽造してまで得たいものが、人の心じゃないことを思い知らされる日々だ。
「やれやれ、、、俺は一生、提出することもないのかもな」冗談まじりにつぶやくと、サトウさんが「それは自業自得では?」と冷たく返してきた。こっちの心も、少し偽造してもらえないものだろうか。
証人欄の筆跡
最後に調べたのは、唯一記入されていた証人欄の筆跡だった。過去の案件で登場した別の不動産業者のものと一致した。「つまり、彼もグルだったってことですね」とサトウさん。詐欺はチームプレイで成り立っていた。
元野球部の僕には、こういう連携プレイが一番腹立たしい。チームってのは、人を守るためにあるもんだろう?まったく、守る気ゼロのメンバーばかりだ。結局、婚姻届を武器にした小さなチームの、哀しい犯罪だった。
本当の婚姻意思とは何か
事件は警察の手に委ねられ、僕たちはようやく手を引くことができた。けれど、婚姻届に書かれた「婚姻の意思」という言葉が、ずっと胸に引っかかっている。本当に、意思なんてものが書類で証明できるのだろうか。
人の心は変わるし、縛れない。それでも、紙切れ一枚にすがる人もいる。「婚姻届を拾いました」という日常の端っこに、こんなにも多くの物語が詰まっているとは思わなかった。やれやれ、、、人生ってやつは、ミステリーすぎる。