朝の事務所に届いた封書
八月の朝。クーラーの効きが悪い事務所に、郵便屋が汗だくで封書を差し出してきた。宛名は俺、そして差出人の記載はない。
「また変な郵便、ですかね」と言いながら、サトウさんは茶を淹れながらも一瞥すらくれなかった。
茶といえばサザエさんの波平も夕飯後に一杯飲んでたな……などとくだらないことを思いながら封を切ると、白い便箋が一枚、滑り出てきた。
差出人不明の簡易書留
手紙は一見して丁寧な文体で、ある女性が亡くなり、遺言書の検認をお願いしたいという内容だった。
問題は「誰の」依頼かがわからないこと。文末に名前も連絡先もない。差出人不明の簡易書留、それが司法書士に届くってのはなかなか珍しい。
「いたずらじゃないといいですね」サトウさんは書類棚の奥から古いファイルを探しつつ、まるで天気予報を聞くように言った。
サトウさんの冷静な観察眼
「この文字、少しおかしいですよ」サトウさんがぽつりと呟いた。彼女は筆跡を見るのが得意だ。
俺も手紙を見直す。確かに、整いすぎている。まるで誰かが清書したような感じだ。
「筆跡ってその人の癖がにじむはずなんですけどね。これは、綺麗すぎて不自然です」サトウさんの言葉に、妙な緊張感が漂い始めた。
不自然な依頼文
便箋に書かれていたのは「母の遺言を検認してほしい」というだけ。名前も、日付も、誰が誰に遺すかの記載もない。
検認の申立書としては致命的に情報が足りていないのに、なぜか体裁だけは整っている。
「書き慣れてる人の文字ですよ」と、サトウさんが眉をひそめる。俺は封筒の香りに気づいた。微かに、甘い香水のような匂いがした。
遺言書の検認をめぐる相談
数日後、匿名の手紙の送り主だという女性が事務所に現れた。黒のワンピース、完璧なメイク。
「母が亡くなりまして、でも筆跡が少し違うように思えるんです」
そんなことを言うが、出された遺言書はあの手紙の筆跡とまったく同じだった。俺はすぐに違和感を覚えた。
見覚えのある筆跡
「この文字……どこかで見たことがある」とつぶやいた俺に、サトウさんがファイルを開いた。
そこには、数ヶ月前に不動産名義の移転で相談に来た女性の申請書があった。
筆跡が完全に一致していたのだ。つまり、彼女が代筆したのは確定だった。
依頼人の曖昧な説明
「母の言葉を正確に残したかっただけなんです」依頼人はそう繰り返した。
だがそれは、偽造と何が違う? 司法書士としての俺の職責が、問われる場面だった。
俺はそっと椅子にもたれた。暑さのせいか、背中に汗が張りついた。
亡き母の意志を継ぐという言葉
「意志を継ぐ」などと便利な言葉を使ってくる依頼人に、俺はじわじわと腹が立ってきた。
それなら、正々堂々と書けばよかった。わざわざ香水を振りかけて、綺麗な便箋でよそよそしく装う必要なんてない。
「代筆の香りがしますね」と言うと、サトウさんが珍しくクスリと笑った。
筆跡は母ではない
「それ、お母様の文字じゃありませんよね」とサトウさんがズバリ切り込んだ。
依頼人は一瞬だけ動揺したが、すぐに取り繕う。「母が具合悪くて、私が代わりに……」
やっぱりな、と俺は心の中でため息をつく。やれやれ、、、こういう仕事が一番神経を使う。
調査開始と書類の検証
俺は過去の遺言書、固定資産台帳、戸籍と照らし合わせて、明らかに整合性が取れない部分を列挙した。
彼女の話が進むたびに、綻びが見えてくる。あまりに準備された嘘ほど脆い。
サザエさんのカツオの嘘を思い出す。「宿題やった」と言ってバレる、あの程度の浅さだった。
登記簿と遺言書のズレ
遺言で相続させると記されていた土地の名義は、既に数年前に売却済みだった。
「この土地、もうあなたの名義ですよね」俺が指摘すると、依頼人は視線を逸らした。
どうやら、全て計画的だったらしい。自分の名義にしてから“遺す”という設定で遺言を書いたのだ。
昔の手紙との比較
サトウさんは以前亡くなった母親が区役所に出した申請書を取り寄せていた。
そこにあった本物の筆跡は、丸みがあり、癖もある。偽造された遺言書の文字とはまったく異なる。
「お母様の本当の意志、ちゃんと伝えたいなら偽造なんてしちゃダメですよ」サトウさんの声は冷たかった。
浮かび上がる代筆の影
俺はゆっくりと、遺言書を封筒に戻した。偽造の証拠が揃ってしまえば、俺の仕事は終了だ。
あとは警察と裁判所がやるべきことだ。
「先生、怒ってます?」依頼人が不安げに聞いてきたが、俺は答えず冷たい茶をひと口すすった。
決定的な違和感
便箋に染み付いた香水の匂いは、依頼人が来たときにつけていたものと一致していた。
細かいようで決定的な証拠だ。文字も匂いも、全部彼女のもの。
やれやれ、、、こんな暑い日はもう少し涼しい事件を願いたい。
香水が語る書き手の正体
文字に混ざる甘い香りは、書き手がそこに存在していた証拠だ。
筆跡よりも雄弁な香りが、彼女の嘘を暴いた。
まるでキャッツアイのように、美しくも切れ味鋭い香りだった。
サトウさんの推理と結末
「先生、また面倒ごとに巻き込まれましたね」
「俺のせいじゃないぞ、俺はただ封筒開けただけだ」
「はいはい、でもちゃんと決着つけたのは先生です。さすがです」……たぶん皮肉だ。
やれやれこういうのは面倒なんだよ
机に突っ伏してつぶやいた俺の横で、サトウさんが冷たい麦茶を置いていった。
手際が良すぎて、逆に怖い。まるで名探偵コナンの灰原みたいだ。
俺はうっかり者の元野球部。それでも、今回はちゃんとホームに投げられた気がする。
真実と嘘の境界線
司法書士の仕事は、書かれたことと書かれなかったことの間にある“意図”を読むことなのかもしれない。
筆跡、香り、言葉の裏側。すべてが一つの嘘を暴く糸になる。
サトウさんがそっと言った。「次はもっと明るい話がいいですね」……俺もそう思うよ。