朝のコーヒーと違和感
その朝は、いつもと同じように始まった。インスタントコーヒーを片手に、事務所のPCを立ち上げていた時、背後からカツンとヒールの音が近づいてきた。
「おはようございます」サトウさんが挨拶もそこそこに自席に座る。いつもの塩対応だが、今朝はどこか様子が違う。
彼女の目線は、机の上に置かれた一通の白い封筒に向けられていた。差出人はなく、宛名も達筆すぎて判読不能。けれど、それは確かに彼女宛だった。
サトウさんの視線の先
「何か心当たりあるの?」と聞いてみたが、サトウさんは無言で首を横に振る。それでも、彼女の視線は封筒に吸い寄せられたままだ。
封筒には、ほんのりとラベンダーの香りが漂っていた。男の俺には分からない香水の種類だが、女性なら気付く微妙な香りだったらしい。
「開けてもいいですか」と、彼女が珍しく俺に確認してきた。これは普通の手紙じゃないのかもしれない。嫌な予感がした。
差出人不明の封筒
封を切ると、中から登記簿謄本のコピーが出てきた。それと便箋が一枚。そこには、万年筆で書かれた整った文字が躍っていた。
「忘れたとは言わせません あの日の約束 登記は終わっていません」——意味不明だ。誰が、誰に、何を言いたいのか。
まるで怪盗キッドが残した予告状のような文体。事件の匂いがしてきた。やれやれ、、、今日は暇じゃなかったのかよ。
封筒の中にあったもの
俺たち司法書士にとって、登記簿はただの書類だ。だが、それが過去の約束と恋と脅迫を含んでいたとしたら、話は別だ。
登記簿には十年前の名義変更の履歴が記されていた。不動産の名義は、途中まで移転されているが完了していなかった。
しかもそれは、俺が見覚えのある案件。当時の依頼人は、今はもう所在不明の人物だった。サトウさんの表情が曇る。
ラベンダーの香りと万年筆の文字
手紙にはさらに、こうも書かれていた。「貴女が最後に会ったのはいつでしたか」。これは、個人的なメッセージなのか、それとも罠か。
「私、こんな人知りません」サトウさんは言い張った。だが、便箋の文字はどこか彼女の記憶に引っかかっている様子だった。
恋の予感というより、不安と記憶のざわめき。香りと文字という曖昧な手がかりだけが、次の展開を予感させていた。
登記簿謄本の謎の一ページ
登記簿の記録によれば、所有者の移転が完了していない。つまり、誰かが書類を提出せずに止めていたのだ。
理由は不明。だが、恋人同士の共有名義だった可能性がある。いわば「未完の愛」と「未完の登記」が重なっているようだった。
司法書士としての俺の血が騒いだ。恋の謎は専門外だが、書類の謎ならば得意分野だ。
依頼人の来訪と沈黙
その日の午後、不意にドアが開いた。入ってきたのは、30代半ばの男性。白シャツに細身のネクタイ、どこか場違いな空気を纏っていた。
「この書類、見覚えありませんか?」と差し出されたのは、まさに今朝の登記簿と同じものだった。
男は自分を名乗らなかった。ただ一言、「彼女に会いに来ました」とだけ言った。
無口な青年の正体
彼の目線は、サトウさんにまっすぐ向けられていた。だが、彼女はまったく覚えていない様子だった。
「高校時代に一度だけ会ったんです」と男は言った。「文化祭で、一緒に書いた寄せ書き、覚えていませんか?」
そんな記憶を覚えている人間が、この世に何人いるというのか。だが、その真剣な目は嘘ではなさそうだった。
申請書に記された奇妙な住所
彼が提出しようとしていた申請書には、見覚えのある住所が記されていた。だが、それは数年前に取り壊されたアパートの場所だった。
つまりこの男は、過去にとらわれていた。住所も恋も、今ではもう存在しない幻だ。
それでも、彼は手続きを終えたいと言った。恋の供養のように。
私シンドウの勘違い
俺はてっきりサトウさんの知り合いか、元カレかと思っていた。やれやれ、またも俺の早とちり。
しかし、彼の動機はもっと純粋で、もっとやっかいだった。忘れられた過去を、書類で形にしたかったのだ。
元野球部としては、こういう感傷的なストーリーには弱い。青春ってやつは、めんどくさい。
やれやれまたうっかり
それにしても、朝のコーヒーを飲み干す前に事件が始まるなんて、珍しい日だった。
俺はサトウさんに「好きな人に手紙、書いたことある?」と聞いてみた。彼女は呆れた顔をして言った。
「昭和のラブコメじゃあるまいし、そういうのは紙じゃなくてPDFの時代です」
サトウさんの推理が始まる
サトウさんが突然立ち上がり、パソコンを操作し始めた。登記情報と過去の案件を照合していた。
「この登記簿、偽造されてます」と彼女が言った。まさかの展開だ。青年は動揺し、「違います」と声を上げた。
が、冷静な彼女は、「筆跡もインクも、当時の様式じゃない」と断定した。
裏返された登記簿の真実
実際には、この登記は存在しないものだった。青年は記憶の中の「もしも」を形にするために、自分で偽造していたのだ。
恋の記憶は、法務局の記録とは無関係。けれど、それを真実と思い込めるほどに、彼にとっては大切なものだった。
「登記じゃなくて、心の中にだけ残しておいてください」と俺は言った。
ラブレターではなく脅迫状
あの便箋の文面は、ラブレターではなかった。むしろ、相手を動かすための感情的な脅しだった。
「覚えていないのが悪い」とでも言いたげな言葉の重さに、彼女は少しだけ眉をひそめた。
けれど、最後まで冷静だった。そこがサトウさんのすごいところだ。
恋の予感と事件の終わり
青年は何も言わず、封筒を置いて帰っていった。まるで自分の役割が終わったかのように。
サトウさんは席に戻り、何事もなかったかのように業務に戻った。だけど、俺は気づいた。
彼女の指先が、ほんの少しだけ震えていたことに。
名義変更と消えた依頼人
この事件の記録は、登記簿には載らない。でも、俺たちの心には確かに残った。
恋と登記は似ている。どちらも意思と証明が必要だ。だが時には、証明できないものが一番本物かもしれない。
俺はそっとファイルを閉じた。「終わったよ」とだけサトウさんに告げた。
あの封筒は誰のものだったのか
封筒の筆跡は、結局誰のものか特定できなかった。青年本人か、あるいはもう一人の関係者か。
それでも、もう調べる必要はなかった。過去に線を引くこと、それも司法書士の仕事だ。
そして今日も、俺たちは静かに書類と向き合っている。