ある依頼人の来訪
黒いバッグを抱えた男
蒸し暑い午後、事務所のドアが軋んだ音を立てて開いた。入ってきたのは、五十代半ばの男性。肩にかけた黒いナイロン製のバッグが、やけに目を引いた。 彼はうつむきながら、名刺を差し出してきた。「兄の遺産の件で……少し相談を」と、声はかすれていた。
特別受益と遺産の争い
依頼内容は兄の遺産を巡る話だった。妹と遺産分割協議を進めているが、妹から「あなたはすでに多くの特別受益を受け取っている」と主張され、困っているという。 贈与の証拠はないと言い張るが、妹はなぜか確信を持っている様子で、口論が続いているという。 彼はバッグをぎゅっと抱きしめるようにしていた。どうにも、そのバッグが気になった。
サトウさんの鋭い指摘
通帳に刻まれた不自然な日付
預金通帳のコピーを見せてもらうと、奇妙な動きが見えた。父が亡くなる一年前、大きな出金が二回。だが、使途がまるで不明だ。 「この時期って、確かに贈与されたって証明されやすいですね」と、サトウさんが指摘する。 彼女はさらりと通帳の端を指でなぞった。塩対応のくせに、こういう時だけ本当に頼れる。
バッグの中身と預金履歴
「バッグの中、見せてもらえませんか?」とサトウさんが言ったとき、依頼人の表情が一瞬こわばった。 「これは関係ないんですが……」と濁したが、シンドウの勘がざわついた。まるであの『ルパン三世』の次元のように、銃を隠してる気配すらある。 やれやれ、、、この手の「見せたくないバッグ」は、だいたい何かあると決まっている。
記憶と証言の食い違い
妹が語る兄の贈与
後日、妹から聞き取りを行った。彼女は「兄は父から車と家の頭金を援助されている」と話す。しかも、銀行振込ではなく現金だったという。 「黒いナイロンバッグにいつも現金を入れて、こっそり渡してたんです。あれ、まだ持ってるんじゃないかしら」と口にした。 その時、全てが繋がった。あのバッグには、過去の記憶がぎっしり詰まっているのだ。
生前贈与は本当にあったのか
シンドウは事務所に戻り、サトウさんとともに記憶の糸を辿った。法的には証拠がなければ贈与とは認められないが、状況証拠は揃いつつある。 「相続法って、まるでサザエさんの波平さんみたいですね。怒ると厳しいけど、意外と融通も利く」とシンドウがぼやくと、 「は?」とだけ返すサトウさん。冷たい、いや、冷静というべきか。
遺産分割協議の場で
不意に現れた第三の人物
話し合いの席に、なぜか父の生前の介護士だった女性が現れた。「お二人のどちらかに、預かっているものを返すよう頼まれていました」と、封筒を差し出す。 中には、贈与の記録と写真、そして父のメモが残されていた。バッグの中にあったものを、なぜか彼女に渡していたらしい。 依頼人は言葉を失った。そしてバッグを、ゆっくりと床に置いた。
サトウさんの仮説と検証
「きっと、あのバッグは“証拠”として自分でも怖かったんでしょうね」と、サトウさんが静かに言った。 「だから見せられなかった。けど、見せなきゃいけなかった」。誰に言うでもなく、シンドウは呟いた。 紙の束には、彼の受けた受益の詳細が赤裸々に記されていた。
シンドウの過去と推理
野球部時代の直感が蘇る
高校野球部で培った直感が、今回も働いていた。「あのバッグを見た瞬間に、これは打ち取れない球だと思ったんですよ」 「何を言ってるんですか?」とサトウさんが呆れた顔をする。 やれやれ、、、説明が下手な自分に、今さらながら落ち込む。
バッグの隠された役割
バッグは単なる物入れではなかった。依頼人にとっては、父との繋がりであり、罪悪感であり、証拠の保管庫だったのだ。 その沈黙が、ようやく破られた。贈与が事実であることが明らかとなり、妹との間に調停を挟む方向で話は進んだ。 「これ、ちゃんと手続きしなきゃね」とサトウさんが言う。
真相とその後
援助か贈与か
結局、バッグの中身が決定打となった。あの現金の記録と父のメモで、特別受益が立証されることに。 裁判所は調停での合意を勧め、遺産は改めて公平に分割されることになった。 依頼人は、バッグを処分することを決意したという。
特別受益の境界線
生前の援助がどこまで贈与になるか、それは法律上も難しい判断になることが多い。 だが、証拠があるなら話は早い。特に、「黒いバッグ」が語った事実は、何よりも重かった。 沈黙する証拠が、ようやく口を開いたのだった。
シンドウの一日が終わる
依頼人の涙と感謝
「本当にありがとうございました」 依頼人が深々と頭を下げた後、事務所には静寂が戻った。 シンドウは椅子に深く沈み、天井を見上げた。
サトウさんの冷たい一言
「ところで、先生の机の上もそろそろ片付けてください」 「え、今?」 「今です」 やれやれ、、、バッグの謎より、こっちの方が手強いかもしれない。