朝の電話と依頼人の異変
その朝はやけに寒かった。電話のベルが鳴り響いたのは、いつものようにサトウさんが事務所のシャッターを開けた直後だった。
「亡くなった父の遺言のことで相談したい」と話す男性の声は震えていた。だが、訥々と語る内容には、どこか引っかかるものがあった。
特に気になったのは、名字の読みが戸籍と違っていたことだ。単なる打ち間違いにしては、あまりに致命的だった。
見慣れぬ名字と戸籍謄本の違和感
「これ、”はら”さんじゃなくて”はらい”さんになってますけど」とサトウさんが淡々と指摘する。依頼人は「昔から間違われるんです」と苦笑した。
だが、戸籍謄本にはしっかりと「払井」の文字が記載されていた。これは単なる読み違いではない。生まれも育ちも地元だというのに、不自然だった。
サザエさん一家に例えれば、波平が「波打」と名乗るくらいの違和感だ。そんな話あるかい、と思いつつ僕はメモを取った。
サトウさんの冷静なツッコミ
「で、遺言書があるって言いましたよね? それ、いつ書かれたものですか」
依頼人はやや間を置いて「去年の夏です」と答えた。サトウさんは「ふーん」と言いながら、パソコンのカタカタという音を止めない。
冷静沈着というより、氷点下。けれどこの態度が、実は一番頼りになることを僕は知っている。
謎の遺言書と二人の相続人
依頼人が持ってきたのは、公正証書遺言の写しだった。そこには自分と、見知らぬ名前の人物が法定相続人として記載されていた。
「この人、父とは何の関係もないはずなんです」と彼は言った。だが、その人物の名字が妙に引っかかる。どこかで見たことがあるのだ。
頭の奥に靄がかかったような感覚に、僕はしばし目を細めた。
公正証書と自筆証書の不一致
さらに、依頼人は「もう一通、自筆の遺言書も出てきたんです」と差し出した。そこには全財産を長男に相続させると書かれていた。
「どっちが有効なんですか?」と聞かれたが、これは簡単には答えられない。
自筆証書は日付が曖昧で、筆跡も乱れていた。ひょっとすると、病床で書かれたのかもしれない。
預金口座の解約トラブル
遺言を根拠に、相続人の一人がすでに預金を解約しようとしていた。だが銀行は「名義人死亡後の取引は不可」と門前払い。
「登記が済めば動くと思ってるんですけど」と依頼人は言うが、それはかなり先の話だ。
もつれた糸を一つずつほぐすように、僕らの作業は続いていく。
調査に動くシンドウ
僕は久々にネクタイを締め、法務局へと向かった。年季の入った登記簿をめくるたび、少しずつ何かが見えてきた。
登記された時期と、遺言書に書かれた内容。整合性がまるでない。あるべき記録が、ひとつだけ抜け落ちているのだ。
「これは、、、誰かが意図的に登記を操作してる可能性があるな」僕は無意識に声に出していた。
法務局で見つけた不自然な登記履歴
被相続人の住所変更が一度もされていない。しかも相続人とされる人物が、すでに別の登記に登場していた。
どういうことだ。亡くなる直前に父が知らない人間のために遺言を残すなど、筋が通らない。
「やれやれ、、、サザエさん家でもここまで複雑な家系図は描かないよな」と僕はため息をついた。
地元の金融機関が握る鍵
地元の信用金庫を訪ねると、古い口座記録から見えてきたのは、謎の相続人とされた人物がかつて被相続人の養子になっていた事実だった。
つまり、かつて家族だったが、のちに除籍された存在。遺言は、それをなかったことにしようとした遺族へのささやかな抵抗だったのか。
この案件、思ったよりも根が深い。
遺言書の裏にある思惑
話を整理すると、かつて養子縁組された男が、知らぬ間に除籍され、そして死後に再び登場した。
それを表面上からは読み取れないように、登記や遺言が細工されていた可能性がある。
「これは、、、司法書士というより、探偵の仕事だな」とつぶやくと、サトウさんが「だったら時給上げてください」と返してきた。
不動産の価値と兄弟間の確執
背景には、不動産の高騰と、それに群がる兄弟の対立があった。古い家だが、駅から近く再開発が始まっていたのだ。
「遺言がなかったら、争いは起きなかったかもしれませんね」
サトウさんがそうつぶやく横顔は、冷たくもどこか哀しかった。
筆跡鑑定と過去の登記ミス
筆跡鑑定の結果、自筆証書は父のもので間違いなかった。だが、それがどこまで意思を反映したものかは、第三者には分からない。
かつての登記にも、小さなミスがいくつか見つかった。それらが連鎖して、いまの混乱を生んでいるのだ。
まるで一つのドミノが倒れて、家族全体の関係まで壊してしまったようだった。
サトウさんの推理と意外な事実
「この人、多分一度も相続放棄してないですよ」サトウさんは古い資料を指さした。そこには養子縁組を解消した証拠はなかった。
つまり、法的には彼も相続人だった。表向きだけで判断していた僕が、うっかりしていたのだ。
やっぱりこの事務所で一番鋭いのはサトウさんだ。
偽造ではないが合法とも言えない
公正証書も自筆証書も、それぞれに問題を抱えていた。結局、家庭裁判所の判断を仰ぐことになった。
僕たち司法書士は、法の枠組みの中でしか動けない。だがその中でも、できることはあったはずだ。
サトウさんの一言がなければ、僕はまるごと見落としていただろう。
最後に残された一通の手紙
依頼人が帰った後、彼が置いていった封筒をサトウさんが見つけた。
中には父親からの手紙。「本当はおまえに全部渡したかった」と走り書きされていた。
「感情は、登記には書き込めませんからね」サトウさんの言葉が、今日はやけに胸に響いた。
司法書士としての判断
僕はその日、書類に最後の署名を終えて、椅子に深くもたれた。仕事は終わったが、解決したとは言い難い。
けれど、法のもとでできる限りのことはやったつもりだ。それで十分なのかもしれない。
ただ、これからまた揉める可能性を考えると、胃が痛くなってくる。
法の隙間と人の善意
善意と悪意の境界線は、思ったよりもずっと曖昧だった。法律はその中立を保とうとするが、現実は常に揺れている。
僕たちはその揺れの中で、どうにか線を引く役目を担っている。
今日もまた、その難しさを思い知らされた。
やれやれというしかない顛末
「やれやれ、、、今日も胃薬が手放せないな」そうつぶやいた僕に、サトウさんは「どうせビール飲むんでしょ」と塩対応だった。
いやほんと、サザエさん家のノリで終われたらどれだけ楽か。
そう思いながら、電気を消して事務所の鍵を閉めた。