ある朝の訪問者
仮登記簿の相談という名の違和感
朝イチでやって来たのは、上品な身なりの中年女性だった。開口一番、「仮登記を本登記にできるかしら」と問いかけてきたのだが、どうにも話が要領を得ない。
物件の登記簿を見せてもらうと、仮登記の名義人の欄が空欄のまま残っていた。なぜ、こんな曖昧な登記が存在しているのか。
この時点で、僕の頭の中には嫌な予感がもやもやと湧いていた。
サトウさんの冷静な観察
「登記原因証明情報が足りてませんね」とサトウさんが書類をひょいと覗き込みながら言った。
彼女の視線は手帳の端に挟まれたメモ紙に移る。そこには見慣れない地番と、名前が殴り書きされていた。
「あれ、これ…旧町名じゃないですか?」。僕よりもずっと地元に詳しいサトウさんの一言が、事態を複雑にしていく。
依頼人の語る相続の経緯
争族にならなかった奇妙さ
その女性は、父親の遺した不動産を自分ひとりが相続したと言う。
兄弟姉妹はいたが、皆「放棄した」と彼女は言い張った。だが、相続放棄の記録もなければ、遺産分割協議書もない。
それでいて、なぜか家裁の調停記録がある。記録に記された相手の名前は、彼女が一切口に出さない、ある名前だった。
名前が抜けていた謎の欄
仮登記簿の名義人欄が空欄というのは、法律上ありえない。
一時的な保存ミスか、意図的な削除か。いずれにせよ、現状では所有権の本登記はできない。
「登記簿を間違えたんじゃないかしら」と彼女は笑ったが、その笑みはどこか作られたものに見えた。
市役所で見つけた空欄の真実
職員が口を濁す理由
「この地番、あまり触れたくない話があったんですよね…」
市役所のベテラン職員が渋い顔をした。どうやら、この場所にはかつて火災があり、所有権の帰属を巡って争いがあったという。
しかし、その争いの記録はなぜか抹消されていた。まるで誰かの意図が働いたように。
古い登記簿の写しの中にあったもの
法務局で閲覧した昭和時代の登記簿謄本。そこには、仮登記の名義人として「カトウユウジ」という名前がしっかりと残っていた。
だが、現行の登記簿にはその名は一切出てこない。抹消記録もなければ、更正登記もない。
まるで「存在そのもの」が消されたような、不気味な空白がそこにあった。
手帳に記されたもう一人の名義人
名前だけが残された理由
依頼人の手帳にメモされていた名前は「カトウユウジ」と一致した。
「昔、父の友人だったらしいんですけど、もう亡くなったって聞いてます」
だが、手帳に書かれた日付は、彼の死後のものだった。これは、亡くなった人に名義を戻すための偽装か?
サトウさんの推理と照合
「このメモ、元カレの字ですね」
サトウさんが何気なく放ったその一言で、空気が変わった。元カレは登記関係の仕事をしていたらしく、女性から彼に依頼した可能性が浮上した。
だが、彼の所在は不明。手帳の端に赤ペンで「委任状」とだけ記された走り書きが、次の手がかりとなった。
行き違いと隠された遺志
元カレの名前と委任状の不在
元カレの名前は「カトウユウジ」だった。登記簿の仮名義人と一致する。
彼女が手にしていたのは、その彼が生前に残した赤い手帳だったのだ。
だが、委任状は存在しなかった。それどころか、遺産の一部に記されていた手書きのメモには「すべて彼女に」と書かれていた。
やれやれとつぶやく午後のコーヒー
「やれやれ、、、またこんな展開か」
僕は事務所のソファに沈み込み、冷めたコーヒーを一口すする。
この仕事、毎度毎度、誰かの愛憎と記憶に巻き込まれるんだ。おまけに、相手が元カレとか、サザエさん一家並みに複雑すぎる。
誰が嘘をついていたのか
サザエさん的家系の構造
家系図を作成すると、依頼人と故カトウユウジは「遠い親戚関係」にあった。
そのため、本来なら名義変更が必要だったが、それを放置していた理由がようやく明らかになる。
「知らなかった」の一言では済まされない、不作為がそこにあった。
曖昧な境界線と登記の死角
この地域では、地番の変更や筆界未定地が多く、登記ミスが起こりやすい。
だが、それを逆手に取って名義を隠す手口は、探偵漫画にも出てこないくらい手が込んでいた。
僕は司法書士というより、名探偵コナンのモブキャラみたいな気分になっていた。
家族が語らなかったもう一つの事実
仮登記のままにされた理由
父親は生前、「すべてを彼女に」と書いたが、それを証明する法的文書を作らずに亡くなった。
その結果、仮登記だけが取り残されたのだ。愛は記録にならない。
しかし、法務局は記録しか見てくれない。なんと皮肉な職場だろう。
暗闇に浮かぶ赤インクの意味
赤い手帳にあった走り書きは、彼の最期の意志だったかもしれない。
「すべて任せる」と書かれた文字の横に、震えた筆跡の署名が残されていた。
それを見た依頼人は、初めて涙を流した。
記憶の中の名義人
消えた委任状と火事の記録
かつてあった火事は、名義人の委任状が焼失した事件でもあった。
これにより、正当な権利者であっても証明できず、登記は止まったままだった。
手帳は、彼が残した最後の証明だったのかもしれない。
サトウさんが発見した古い新聞
「先生、これ見てください」
サトウさんが差し出したのは、20年前の地方紙。そこには「火事で重要書類焼失」の見出しが。
僕らの探偵劇場は、ようやく幕引きの準備に入った。
真実は登記簿にだけ残っていた
司法書士としての一歩を踏み出す
結局、登記はできなかったが、仮登記を解消する手続きは始まった。
それにより、ようやく次の名義人が現実に登記される準備が整ったのだ。
正しさとは、記録することにある。そのことを改めて思い知った。
仮登記が語る過去の記憶
仮登記は未完のまま残された愛情だったのかもしれない。
すべてが記録されるわけではない。けれども、誰かがそれを読み解こうとしたとき、記憶は甦る。
僕はその断片を拾い集める、ただの司法書士だ。
事件の終焉とほろ苦い報酬
登記簿を閉じる静かな音
案件が終わると、依頼人はそっと手帳を封筒に入れて帰っていった。
僕は一人、登記簿の写しをファイルに閉じ、棚に戻す。
静かにパタン、と音が鳴った。それが、この事件の幕引きだった。
サトウさんの一言が刺さる夜
「人間関係も登記できたら楽なのに」
事務所を閉めるとき、サトウさんがボソッとつぶやいた。
ほんとだよ、まったく。やれやれ、、、