疲れてるのに話せる相手がいない夜

疲れてるのに話せる相手がいない夜

気づけばいつも独りで抱えてしまう

気づけば、いつも独りで抱えている。忙しい日常に追われているうちに、「疲れた」の一言すら言えなくなった。誰かに愚痴りたいと思っても、口を開いたところでどうせ気を使わせてしまう。そんな遠慮が先に立ってしまうのが、自分の不器用なところなのかもしれない。45歳になって、地方で司法書士事務所を一人で運営しているけれど、日々の積み重ねが心に堆積して、知らないうちに「話せない自分」をつくり上げてしまっていた。

弱音を吐くことに慣れていない

子どものころから「男は泣くな」「弱音を吐くな」と言われて育ってきた。元野球部だったこともあって、気合と根性でなんとかなるという価値観が染みついている。もちろん時代は変わったし、そういう考えが古いのもわかっている。でも、染みついた習性はそう簡単には変えられない。だからこそ、疲れていても「なんとかなる」と自分に言い聞かせるクセがある。誰にも見せられない疲労感だけが、帰宅後の部屋にひっそりと漂う。

元野球部のクセが抜けない

高校時代、夏の大会のときに肘を痛めたことがある。でも、レギュラー争いをしていたこともあり、誰にも言えなかった。痛みを我慢して投げ続けて、結局その年の秋にはベンチにも入れなくなった。それでも、そのとき「誰かに相談すればよかった」とは思えなかった。今思えば、それが自分の中の「弱音NGスイッチ」が固まった瞬間だった気がする。社会に出てからもそのスイッチはずっとオンのままだ。

耐えることが美徳だった時代

バブル世代でもなければ、完全にゆとりでもない中途半端な世代。耐えること、歯を食いしばることがかっこいいとされてきた。そうやって評価されることが当たり前だったから、今さら「つらい」と口に出すことが恥ずかしい。だけど、内心では誰かに「よくやってるよ」とか「大丈夫?」と聞いてほしいと思ってる。心の奥で、小さな声がずっと助けを求めてるのに、それを外に出す術がわからない。

誰かに話せたら少しは楽になるのに

ふとした瞬間に、「ああ、誰かに話せたら少しは楽になるんだろうな」と思うことがある。でもその「誰か」がいない。友人も少なく、恋人もいない。実家とはそれなりに連絡をとっているけど、弱音を見せる相手ではない。事務所にいる事務員さんはよく頑張ってくれているけれど、愚痴をこぼすには距離が近すぎる。気を使ってしまう分、むしろ言えない。

事務員には気を使ってしまう

うちの事務員さんは、本当によくやってくれている。いつも丁寧で、こちらの忙しさにも理解を示してくれる。でも、だからこそ余計に弱音を吐けない。「先生、大変ですね」と言われると、つい「いや、大丈夫ですよ」と返してしまう。たぶん、向こうも気を使って言ってくれているのがわかるから、こちらも気を使って応えてしまう。優しさが交差する中で、本音はどこかに取り残されてしまう。

愚痴は山ほどあるけど笑ってごまかす

登記のトラブル、予定通りにいかない案件、終わらない調整業務。愚痴ろうと思えば山ほどある。でも「愚痴っても仕方ないよな」と思ってしまう。そんなとき、笑ってごまかすという手段に出てしまう自分がいる。気づけば、笑い方まで営業スマイルになっていたりする。誰かと心から本音で笑い合うって、どれくらいぶりだっただろう。

この仕事を選んだのは自分だけど

司法書士という仕事を選んだのは自分だし、地方で独立したのも自分の意思だった。誰かに強制されたわけでもない。だけど、「自分で選んだ道だから」と何もかも背負い込むには、やっぱり限界がある。どれだけやっても「もう少し頑張れ」と自分を追い立てるクセがついてしまっている。

司法書士は孤独と隣り合わせ

仕事の性質上、相談相手はいても「同じ立場の人」と深く話す機会は少ない。独立してからは特にそれを痛感している。セミナーや集まりもあるけれど、結局は業務トークに終始してしまい、「疲れた」「しんどい」と素直に言える場ではない。どこかで「弱みを見せたら負け」と思ってしまうのは、職業柄なのか、男の意地なのか。

相談できる相手の少なさが地味にきつい

昔の友人とは疎遠になり、同業の仲間とも会う機会が減った今、相談できる相手がいないという現実は地味にきつい。孤独は派手に襲ってくるのではなく、じわじわと心を蝕む。たとえば、夜のコンビニの明かりが妙に沁みたり、誰かのSNSの「今日も頑張った!」という投稿がなぜか苦しく感じたりする。そんな自分の感情すら、どこにも出せずにいる。

誰かのために頑張ってるはずなのに

目の前のお客さんのために、登記の相談を受けて、書類を整えて、期限を守って必死で動いている。それなのに、なぜか自分だけがどんどん空っぽになっていくような感覚に襲われることがある。誰かの支えになりたいと思って選んだ仕事なのに、自分の心がどんどんすり減っていく。そんな矛盾に、夜中ふと目が覚めてしまう。

先生と呼ばれることがむしろ重荷

「先生」と呼ばれるたびに、プレッシャーを感じてしまう。「しっかりしなきゃ」「間違えちゃいけない」という責任感が、余計に心を疲れさせる。信頼の表れとしての「先生」だというのは理解している。でも、その言葉が自分の中の「弱音を吐いてはいけない」をさらに強化してしまっているのだ。

仕事が忙しすぎて人間関係が削られていく

仕事が忙しいと、連絡を返すのも面倒になる。誘いも断りがちになる。そうすると、気づけば連絡先リストの中で、よく連絡する相手は「税理士」「銀行担当者」「法務局」だけになっていた。たまに携帯が鳴っても、業務連絡か営業電話。誰かと心のつながりを感じる会話をしたのは、いつだったろうか。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。