自由に働けるって話信じた俺がバカだった

自由に働けるって話信じた俺がバカだった

自由なはずだったこの仕事に縛られている実感

司法書士になれば、時間の裁量が自分にある。そんな期待を胸に開業したのは、もう何年前だったか。確かに、朝の出勤時刻を誰かに決められることはない。でも、実際には「自由」なんて、あってないようなもんだった。自分で予定を立てても、その通りに進んだ試しがない。毎日がイレギュラー、毎日が「何か起こる日」。そのたびに「こんなはずじゃなかった」と思う。自由って、案外、幻想かもしれない。

朝の予定はいつも未定

一日の始まりは静かにコーヒーを飲みながら新聞でも読んで…なんて、理想の朝は夢のまた夢。実際は、朝から電話が鳴り、メールが入り、いきなり「至急対応お願いします」とくる。昨日寝る前に頭の中でシミュレーションしていたスケジュールは、出勤10分で崩壊。結局、目の前の急ぎの案件を優先して、元の予定は後回し。で、夜になって「なんで俺こんなに疲れてるんだ?」と天井を見上げる。そんな朝が、もう何年も続いてる。

「今日はゆっくりできそう」が一番信用ならない

「今日は珍しく何も予定がないから、たまってる書類を片付けよう」。そう思っていた午前9時、電話が一本。「〇〇さんの件、今日中に処理できませんか?」。依頼主のトーンは軽くても、こっちは命がけ。急ぎ案件が一つ入れば、他の仕事は一気に後回しになる。結局、「ゆっくりできそうな日」は、たいていバタバタになる。もはや「今日は暇だな」と思うことすら怖い。フラグを立てたくない。

予定表はあっても、実際は電話一本で崩れる

Googleカレンダーを色分けして予定を管理していても、電話一本で全部パー。以前、登記の申請書をまとめて仕上げるつもりだった日に、相続のトラブル案件が急浮上して、半日がそれに潰れたことがある。事務員に任せようにも、対応力には限界がある。結局、「予定を守る」より「誰かの問題を優先する」日々。手帳に書く予定は、ただの願望にすぎないと、もう自分でもわかっている。

緊急案件がすべてを飲み込む

司法書士の世界でよくあるのが、「今日中に」とか「今すぐに」とか、急を要する案件。依頼者は切羽詰まっていて、こっちがどんな予定であろうが関係ない。なんとか応えてあげたいと思う気持ちはある。でも、緊急案件って一つ入ると、あとのすべてが崩れる。土台が壊れた積み木のように、他の仕事がガタガタと崩れていく。結局、夜になって残業。誰のせいでもないけど、毎回どっと疲れる。

「至急でお願い」って、そんなに急ぐ内容?

ある日、取引先の不動産業者から「至急登記をお願い」と言われ、予定をすべてずらして対応したことがある。でも、実際には、その登記を急ぐ理由は特になかった。ただの営業の都合。そんなのに振り回される自分って何なんだろうと、机に向かいながらため息が出た。誰も悪くない。でも、こういうことが積み重なると、「俺の一日って、誰のためにあるんだ?」と虚しくなる。

断ったら終わりというプレッシャー

自由に働けるはずだったのに、「断る自由」がない現実。特に地方では、人付き合いが濃い。断れば「あそこの先生は頼りにならない」と噂になるリスクもある。だから、無理してでも引き受けてしまう。そして、その無理が習慣になり、気づけば自分の限界を超えている。正直に言えば、何度も「断ればよかった」と思った。でも、それを次に活かせた試しがない。優しさと小心さのバランスで、今日もギリギリ生きている。

独立のはずが依存の連続

開業する前は「自分の力で仕事を回していくんだ」と意気込んでいた。でも、実際には顧客、取引先、役所…どこかに常に依存している。独立っていうのは、孤立とは違う。でも、「自由に働く=誰にも縛られない」って思っていた自分が甘かった。実際には、誰かに頼られているようで、頼っていないとやっていけない。皮肉な話だけど、自由を得た代償は、孤独と責任と、地味な依存だった。

依頼先との力関係が完全に逆転してる

ある程度仕事が軌道に乗ってきて、定期的に案件をくれる不動産業者や弁護士がいる。でも、それが逆にプレッシャーになっているのも事実だ。相手に気を遣いすぎて、こっちの要望が言えない。たとえば「納期をもう1日だけ伸ばしてほしい」って言えない。言えば「じゃあ他の司法書士に頼むね」となるリスクがある。対等なはずが、気づけば完全に「下から」の姿勢。これが自由か?と、自分に問いかける日々。

相手の顔色ばかり伺う日々

とにかく嫌われたくない。そんな気持ちが強くて、無理なお願いもつい「わかりました」と答えてしまう。結果、自分の首を絞めている。でも、依頼が減るのが怖い。だから顔色を読み、言葉を選び、空気を読んでばかり。「自由に働く」って、もっと堂々としているものだと思っていた。でも現実は、他人の顔色に左右される毎日。自由より先に、人間関係のストレスにやられそうになる。

事務員に頼れない現実

唯一のスタッフである事務員は真面目で助かっている。でも、結局は「自分でやったほうが早い」と思ってしまう場面が多い。任せたほうが効率的なはずなのに、気づけば自分で処理している。任せる勇気と、時間の余裕が足りない。誰かを雇っているはずなのに、「ワンオペ感」は変わらない。なんのための雇用だったのか、時々疑問に思う。

一人雇ったけど結局ほぼ全部自分

「一人雇えば少しは楽になるよ」と周りに言われて雇った事務員。でも、やってみると指示を出す手間、責任、教育…ぜんぶ自分に跳ね返ってくる。特に最初の数ヶ月は、むしろ仕事が増えた。慣れてくれば少しは助かるようになったけど、結局は「大事な部分」は全部自分がやる。じゃないと不安。結局、自分の時間は減ったまま。自由って、どこいった。

「これお願いしていい?」が言いづらい

頼めばやってくれる。でも、「忙しそうだから」「これは自分の方が早いから」と言い訳を重ねて、頼まない。結果、すべてが自分にのしかかってくる。自分の性格の問題なのかもしれない。でも、それすらも「自由な働き方」には含まれているはずだと思っていた。もっと気軽に「これお願い」と言える自分だったら、もう少しは違ったのかもしれない。

元野球部でも打てない日がある

根性論で乗り越えてきた青春時代。「気合いでどうにかなる」は、野球部の鉄則だった。でも、社会に出てからは違う。特にこの仕事は、気合いではどうにもならない局面ばかりだ。どれだけ頑張っても報われないこともある。打率は上がらないし、試合にも出られない。そんな日々を、ただ静かに受け止めるしかない。元野球部でも、三振ばかりの現実がある。

気合いと根性じゃどうにもならない日々

体調が悪くても、気分が沈んでいても、登記の締切は待ってくれない。昔なら「気合いで乗り切るぞ!」と声を上げて走り出していた。でも今は、身体が言うことを聞かない日もあるし、気力がついてこないこともある。そんな日に限ってトラブルが起きたりして、「なぜ今なんだ」と空を見上げる。努力ではカバーしきれない領域があると、最近やっと認められるようになってきた。

昔の自分を引き合いに出して落ち込む

「昔の俺ならもっとやれてた」とか「なんで今の俺はこんなに遅いんだ」とか、比較するのはいつも自分。年齢や疲れが原因とわかっていても、納得できない自分がいる。特に、うまくいかない案件が続くと、落ち込みは深くなる。自己肯定感は下がるばかりで、「このままじゃダメだ」と思っても抜け出せない。そんな時は、ただ夜を静かに過ごすしかない。

それでもこの仕事を続けてる理由

毎日バタバタで、自由なんてない。愚痴ばかりで、しんどいことだらけ。それでも、この仕事を辞めようとは思わない。人の人生の節目に関われること、その人がホッとした表情を見せてくれること。それが、自分の中の小さな誇りになっている。大したことじゃなくても、「ありがとう」と言われると、少しだけ救われる気がする。その一言のために、また一日を耐えようと思える。

誰かの役に立てたときの静かな嬉しさ

先日、相続登記で苦しんでいた女性が、手続き完了後に涙を流して「助かりました」と言ってくれた。その瞬間、ああ、この仕事をやっててよかったと思った。派手な成功はないけど、小さな達成感はある。その積み重ねが、しんどい毎日の支えになっている。

愚痴は多いけど、辞めたいとは言わない

「大変ですね」「よく続きますね」と言われることも多い。でも、自分の中では「続ける理由」がちゃんとある。愚痴は確かに多い。でも、やめたいとは思わない。多分、向いてないのに意地で続けてるのかもしれない。でも、それでもいいと思ってる。

自由じゃないけど、少しは誇りがある

自由にはほど遠い。でも、この不自由さの中で、自分なりのやり方を見つけてきた。誰かの人生に少しでも役立てているなら、それだけでいいと思える瞬間がある。今日も疲れたけど、「俺、まあまあやってるよな」と夜にこっそり思えれば、それでいい。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。