気のせいかもじゃなくて本当にしんどい日がある

気のせいかもじゃなくて本当にしんどい日がある

気のせいかもじゃなくて本当にしんどい日がある

それって気のせいじゃないと思う瞬間

ある日突然、仕事に行きたくないという気持ちが込み上げてくる。それまで元気だったのに、ふとした瞬間に「あれ、ちょっと変だな」と感じることがある。私はそれをずっと「気のせい」にしてきた。元野球部の根性論が染みついているせいか、精神的な不調に対して「甘えちゃいけない」と思い込んでいた。でも、ある朝、事務所のドアの前で立ち尽くして動けなくなった。あのとき初めて思った。「これ、気のせいじゃないかもしれない」と。

朝起きて机に向かうだけで吐き気がした日

いつも通り目覚ましが鳴って、いつも通り顔を洗って、スーツに袖を通す。だけど、その朝は違った。机に向かった瞬間、胃のあたりがムカムカして、吐き気がこみあげてきた。「何か変なものでも食べたかな?」と思ったが、そうじゃないとすぐにわかった。PCの電源を入れた瞬間、未読のメールと締切の文字が目に入り、それだけで頭が真っ白になった。これはただの体調不良じゃない、仕事への拒否反応なんだと悟った。

「寝れば治る」はもう効かない

昔は疲れても、ひと晩ぐっすり寝れば翌朝にはすっきりしていた。でも今は違う。寝ても疲れが取れない。むしろ、朝起きた瞬間から心が重たい。事務所に向かう足取りはどんどん遅くなり、「どうしてここまでやらなきゃいけないんだろう」という問いが頭から離れない。心が削られるというのは、こういうことかと思い知らされた。寝て回復できるのは、まだ心に余裕がある証拠だ。私のように、それすらできなくなっていたら、立ち止まるサインかもしれない。

小さなサインに気づけなかった自分への後悔

今思えば、もっと早く気づける兆候はあった。電話に出るのが億劫だったり、何でもない書類の誤字脱字が急に増えたり。ちょっとした「ミス」が、実は心のSOSだったのかもしれない。でも、私はそれを全部「疲れてるだけ」と片付けてしまった。自分の気持ちにフタをし続けた結果、限界が来てからようやく事の重大さに気づくことになる。それが一番悔しい。もっと、自分の心の声に敏感でいられたらよかった。

仕事があるのはありがたいのに息苦しい

「忙しい=幸せ」という感覚が染みついていた頃がある。依頼が多いときは、自分が必要とされているようで、どこか誇らしかった。でもそれは、ただの錯覚だった。あるときから、案件が重なるたびに「ありがたい」よりも「苦しい」が勝つようになっていた。それなのに、なぜか「感謝しなきゃ」と自分を追い込む。心が折れても誰も気づかない。むしろ「仕事あるんだから、いいじゃない」と言われる。それが一番つらい。

依頼が重なると感謝よりもプレッシャーが勝つ

案件が3件、4件と重なると、まず感じるのは「どうやって終わらせようか」という不安だった。依頼主の期待に応えたい気持ちはある。でも、それ以上に「失敗できない」「遅れられない」というプレッシャーがどんどん積み重なっていく。特に登記関係は、期限があるものも多く、1日ずれるだけで大きな問題になる。そんな毎日を繰り返していると、だんだん「このままじゃ潰れるな」という感覚が現実味を帯びてくる。

頑張ってるつもりなのに誰にも伝わらない虚しさ

忙しくても、誰にも頼れない。うちの事務所は私と事務員ひとりだけ。彼女も精一杯やってくれているし、文句なんて言えない。でも、だからといって私が何でも背負いすぎるのは限界がある。周りは「一人でやっててすごいね」と言ってくれる。でも、その「すごい」は、孤独の裏返しなんだよなと思うことがある。誰にも「しんどい」と言えず、ただ無表情でこなす日々。その虚しさが、心にじわじわ染み込んでくる。

お客様の前では笑顔 でも本音はしんどい

お客様の前では、当たり前のように笑顔で応対する。少なくとも不安にさせないよう、こちらは自信ありげに見せる。でも、電話を切ったあとや面談が終わったあとは、どっと疲れが押し寄せる。「今日も笑顔、なんとか乗り切った」と、心の中で小さくつぶやく。しんどいという言葉すら、心のどこかに押し込めて。気づかれないようにふるまうのが、司法書士という仕事の「演技力」なのかもしれない。だけどそれは、確実に自分をすり減らしていく。

それでも誰にも相談できなかった

いざというとき、誰かに相談できる人がどれだけいるだろうか。私はいなかった。というより、自分が相談される側になっていたから、「自分が弱音を吐くわけにはいかない」と思い込んでいた。士業は孤独だとよく言われるが、それは本当にそうだと思う。助けを求めることが、敗北のように感じてしまう。そんな自分の小さなプライドが、事態をさらに悪化させていた。

相談って何をどう話せばいいのかすら分からない

「相談したらいいのに」とよく言われる。でも実際、何をどう話せばいいか分からなかった。「疲れてます」「限界です」と言ったところで、具体的な解決策があるわけじゃない。それに、話してる途中で涙でも出てきたらどうしよう…なんて考えて、余計に口が重くなる。本音を話すって、簡単なようで一番難しい。士業をしていると、つい感情よりも論理を優先してしまうクセがついていて、それが自分の心をさらに不自由にしていた。

同業に弱音を吐くのが怖かった理由

士業同士の集まりもあるけれど、そこで「最近しんどくてさ」なんて言える空気じゃない。みんな、表向きは元気そうにしているし、そう見せている。だからこそ、自分だけが弱音を吐いたら「ダメなやつ」と思われそうで怖かった。実際、昔先輩が「最近ちょっと調子悪くてさ」とこぼしたとき、周りは一瞬沈黙して、話題を変えてしまった。あの空気を思い出すと、どうしても自分からは言えなかった。

一人事務所の「孤独」という言葉じゃ足りない現実

一人で経営していると、孤独なんて言葉では表現しきれない現実がある。何か問題が起きても、すべて自分の責任。誰かに丸投げできるわけでもなく、逃げ場もない。休みの日ですら、ふと「月曜のあの件どうしよう」と頭に浮かぶ。それがストレスとして溜まり続ける。誰かがいてくれるだけで違うんだろうなと、ふと思う。でも、現実的には人を増やす余裕なんてない。それがまた、心を疲れさせる一因になっている。

それでも今日も事務所のカギを開ける

こんなにしんどい日々でも、私は毎朝事務所のカギを開けている。それができている自分を褒めてあげたい気持ちも、ほんの少しはある。毎日ギリギリのところで踏ん張っているのは、自分なりの「誇り」でもあるからだ。誰にも見えない努力だけど、自分だけは知っている。今日はダメでも、明日は少しマシかもしれない。その希望が、なんとか私を立たせている。

忙しいのに辞めない理由を自分に問い直す

よく考える。なんでこの仕事を辞めないんだろうと。しんどくて、つらくて、報われないことも多いのに。だけどやっぱり、誰かの「ありがとう」が頭に浮かぶ。「助かりました」と言われたとき、「やっててよかった」と少しだけ思える。それだけを支えにしている部分もある。他人から見たら滑稽かもしれないが、それが現実だ。

誰かの役に立てている そう思えた日の救い

あるとき、相続登記で不安そうだったご高齢のお客様が、手続き後に深々と頭を下げてくれた。「こんなに丁寧にしてもらえると思わなかった」と。そんな一言で、数日の疲れがスッと和らいだ。誰かの役に立てるというのは、心を支える力になる。大それたことじゃなくてもいい。ただ、誰かにとっての「安心」を届けられたことが、明日へのエネルギーになる。

「気のせいじゃなかった」と認めることの意味

結局、「気のせい」ではなかった。しんどさにも、疲れにも、理由があった。それを認めることで、少しだけ心が軽くなった気がする。無理に元気に振る舞わなくていい。ダメなときはダメでいい。そう思えるようになっただけでも、私は少しだけ前に進めたのかもしれない。同じように、今日も踏ん張っている誰かがいることを思えば、また明日もなんとかやっていける気がする。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。