強がりの裏側にあるもの
司法書士として独立してからというもの、「弱音は見せないほうがいい」とずっと思い込んできた。依頼人には不安を与えたくないし、事務員にも「頼りない」と思われたくなかった。でも、その分だけ心に澱が溜まっていく。元々、野球部だった頃は「気合いで何とかしろ」が合言葉だったし、それが今もどこかに残っているのかもしれない。けれど、気合いじゃどうにもならない現実もある。そんなとき、ふと「誰かに打ち明けたい」と思っても、口に出す勇気が湧いてこない。それが、日々をさらに苦しくしている。
「大丈夫です」と言い続けた末路
「大丈夫です、大丈夫です」と、口癖のように繰り返していたある日、ふと鏡に映った自分がやけに老け込んで見えた。あれ? こんなに疲れてたっけ。気づけば、肩こりや胃の痛み、眠れない夜が当たり前になっていた。「大丈夫」って言葉は、自分を励ます魔法みたいなものだと思っていたけど、使いすぎると毒になる。誰にも助けを求めず、気づいたら限界を超えていた。言葉にしない苦しみは、いつの間にか身体に出るようになる。それでも、やっぱり「弱音は見せたくない」と、無理を続けてしまう自分がいた。
誰かに頼れなかったあの日の後悔
昔、登記申請でとんでもないミスをしたことがある。確認不足のダブルパンチで、お客さんに迷惑をかけてしまった。あのとき、事務員にちょっと頼めば二重チェックができたはず。でも、「これは自分の仕事だから」と抱え込んでしまった。結局、すべて自腹で対応し、数日間胃がキリキリして眠れなかった。そのとき初めて、「自分の弱さを認めなかったせいで、誰も守れなかった」と気づいた。でも、もう遅かった。後悔だけが胸に残り、「今度こそミスは許されない」と、さらにプレッシャーを背負うようになった。
肩を叩いてくれる人のいない現実
会社勤めをしていたころは、上司が失敗しても「しゃーないな」って言ってくれた。だけど今は、肩を叩いてくれる人なんていない。自分が自分を慰めるしかない世界。事務員さんは優しいけど、相談できる雰囲気ではないし、プライベートでも気軽に話せる友人はどんどん減ってきた。弱音を吐いたところで、どうせ誰も受け止めてくれないと思ってしまう。だから黙る。けれど、その沈黙は、自分をどんどん孤独にしていく。強がれば強がるほど、自分だけが置いてけぼりになる感覚が募っていく。
弱音を吐けない職業
司法書士という肩書きは、信用と責任が常にセットになっている。「しっかりしてる人」という期待を背負って働いていると、自然と自分の感情にフタをするようになる。特に地方では「○○先生」と呼ばれる立場上、少しでも人間くさい部分を見せることに抵抗がある。でも、その“先生像”に自分が押し潰されていく瞬間がある。実は何もかも分かっているわけじゃない。日々悩みながら、手探りで進んでいるのに、「分からない」とも言えない。それが、弱音を吐けない職業の現実なのだ。
司法書士という「何でも知ってる人」幻想
「登記のことなら先生に聞けば全部分かるでしょ?」と、軽く言われることがある。でも、そんな万能な司法書士なんてどこにもいない。毎年のように法改正があり、実務もクライアントの事情も日々変わる。だからこそ、学び続けなければならないのに、「分からない」と口にした瞬間、信用を失う気がしてならない。結果として、知らないことを知っているふりをする。心はどんどん疲弊していく。いつしか「知っている自分」しか許されない世界に生きていることに気づく。
事務員の前でも冷静を装う日々
本当は焦っている。でも、事務員の前では平然と装う。電話を切ったあと、資料を見ながら冷や汗をかいている。でも「これは至急だな、よろしく」とクールに頼んでしまう。そんな自分に、あとで自己嫌悪する。「ちょっとパニクってます」と言えば、少しは楽になるのに、それができない。なんで自分はこんなに虚勢ばかり張ってるんだろうと思う。でも、職場で弱さを見せた瞬間、「頼りない」と思われたら終わりだという不安が常にある。
クライアントに不安を悟らせたくない本音
クライアントとの面談中、こちらがちょっとでも自信なさげに見せると、不安を感じ取られてしまう。だから無理してでも堂々と見せる。でもその分、心のどこかでは「本当は不安なんです」と叫びたくなる瞬間がある。とくに難しい案件や初めて扱うケースでは、資料を読み込みながら頭を抱える。でも「少々お時間ください」と丁寧に笑う。それがプロとして当然だと思っているけど、自分の中の葛藤は増す一方。誰かに「大変だったね」と言ってほしい。ただそれだけなのに。
誰にも言えない孤独の正体
一人事務所というのは、自由だけど孤独だ。誰かに愚痴を言おうにも、その「誰か」がいない。SNSでつぶやくのもリスクが高い。匿名で投稿しても、どこかで見られているんじゃないかと不安になる。だから、自分の中で抱え込むしかない。感情の逃げ道がないというのは、実にしんどい。ふと気づくと、深夜に天井を見つめている。誰にも話せない孤独が、静かに心を蝕んでいく。
「相談できる相手がいない」のは甘えか
よく「誰かに相談すればいい」と言われるけど、相談できる相手がいないのは甘えなんだろうか。本当は、話を聞いてくれる人がいればどれだけ救われるか。でも、同業者に相談すれば「こいつ、そんなことで悩んでるのか」と思われそうで言えない。家族もいない。元カノはもう連絡も取らない。友人はみんな家庭を持ち、誘うのも気が引ける。気づけば、「相談する場所」を自分で全部消してしまっていた。そんな自分が、一番の原因なんじゃないかとさえ思えてくる。
野球部の頃の仲間と今の自分を比べてしまう
学生時代、野球部の仲間とは何でも言い合えた。「しんどいわー」「もう無理や」そんな言葉を素直に吐けた。でも、あいつらはみんな、今や立派に家庭を築き、会社で出世している。自分だけが、司法書士なんてニッチな道を選び、しかも孤独にやっている。LINEのグループはまだあるけど、最近はスタンプすら送れなくなった。弱音を吐くどころか、「元気?」とも言えない自分が情けなくなる。あの頃の仲間に、今の自分をどう見せればいいのか分からない。
もしも弱音を吐けたなら
もし、「しんどい」と言えたなら、何かが変わるだろうか。弱音を吐いたからって、全てが楽になるわけではない。でも、それだけで心が少し軽くなることはあると思う。誰かに「それ分かるよ」と言ってもらえたら、それだけで次の日、もう一回頑張れる気がする。大事なのは「弱さを出すこと」ではなく、「弱さを隠し続けないこと」かもしれない。少しだけ勇気を出してもいいのかもしれない。
人に頼る勇気は負けではない
「頼ることは負けじゃない」って言葉、昔は聞き流していた。でも今ならわかる。頼ることができる人のほうが、強いのかもしれない。一人で抱え込むのは、実はとても脆い。それを装ってるだけだったんだと思う。ちょっとした一言、「最近、調子どう?」とか、「最近忙しい?」って言われるだけで救われる日もある。逆に、自分もそういう一言を誰かにかけていけたら、と思う。
「助けて」と言える大人になれるか
「助けて」って言える大人って、実はかっこいいんじゃないか。野球部時代は、エースでも監督に泣いて相談してた。あれは弱さじゃなかった。強さだった。なのに、今の自分はどうだ。誰にも「助けて」と言えない、言わない。背負いすぎて、身動きが取れなくなっている。それでも、これから先は変わっていけるかもしれない。ほんの少しずつでいい。誰かの前で、仮面を外せる日が来るように。
読んでくれたあなたへ
ここまで読んでくれたあなたも、きっと似たような気持ちを抱えているのではないだろうか。職業や立場は違っても、「弱音を吐けない苦しさ」は誰にでもあるものだと思う。だからこそ、僕はこれを読んだあなたに伝えたい。「弱音を吐いてもいい」と。吐いたところで、誰もあなたを嫌いになったりしない。むしろ、そういうあなたのほうが人間らしくて魅力的なんじゃないかと、僕は思う。
孤独な戦いをしているあなたに伝えたい
一人で抱え込まないでほしい。言葉にしていい。誰かがきっと、それを受け止めてくれる。僕は司法書士として、強がってばかりいた。でも今、こうして文字にすることで、少しだけ救われている。この文章が、あなたの孤独を少しでも軽くできたなら、それだけで書いた意味がある。お互い、もうちょっとだけ、自分に優しくして生きていきませんか。