笑わせようとするとスベる

笑わせようとするとスベる

笑わせようとするとスベる

「笑いが取れたら、場が和む」と思っていた。でも現実はそう甘くない。司法書士という仕事柄か、冗談や軽口が許される雰囲気は少ない。自分では「ちょっと和ませよう」と思って発した一言が、見事に空気を凍らせる。しかもその瞬間って、何度経験しても慣れない。スベった自分をリカバリーしようとすると、さらに痛々しい空気になるだけ。笑いって本当に難しい。

空回りの瞬間が教えてくれること

クスッとでもいいから笑ってほしかった。そんな軽い気持ちで放った言葉が、空気を固める。そういう瞬間って、ものすごく自分の存在を問い直したくなる。空気が読めてないのか、そもそも求められてないのか。笑わせようとしてスベると、自分の価値までもが否定されたような気になる。でも、空回りは「今の自分に足りない何か」を教えてくれているのかもしれない。

頑張りが報われないあの感じ

場を和ませるために、前の晩にネタを用意したこともあった。ネットで「おじさんでもウケる一言」みたいなフレーズを調べたり。でも実際に使うと、誰も笑わない。それどころか「真面目にやってください」と言われることすらある。あのときの、胃の底がヒュッとする感じ。やるせなさと恥ずかしさが同時に押し寄せて、顔が引きつる。報われない努力って、本当にこたえる。

「ウケると思ったんだけどな」の落とし穴

自分では「これは鉄板だ」と思っていたネタでも、現実ではまったくウケないことがある。それはもう、笑えるぐらいスベる。心の中では「いやこれ絶対ウケると思ったんだけどな」ってつぶやいてる。でも現場では、誰もその気持ちに共感してくれない。そこにあるのは、無音。ウケを狙うということは、相手の心を読まなきゃいけないということ。その精度がズレていると、悲劇が生まれる。

職場の空気と笑いの温度差

司法書士の仕事場って、だいたいが静かで真面目。冗談を挟める雰囲気なんて、ほとんどない。とくにうちのような少人数の事務所では、一度スベった空気がそのまま閉じ込められる。どこにも逃げ場がないから、笑いのミスがいつまでも空中に残ってるような気がする。仕事の緊張感と笑いのリズムが、どうしてもかみ合わない。

司法書士という職業の“場違い感”

登記や相続の相談に来るお客さんに、少しでも安心してもらいたい。その気持ちから出る一言が、逆効果になることもある。「この人、軽くて信用できるのかな」と思われたら本末転倒。司法書士という肩書きが求められるのは、真面目さと誠実さ。そこに笑いの要素が入る余地は、限りなく狭い。冗談を言った自分が、場違いに思える瞬間が何度もあった。

冗談が業務にすべり込めない理由

会話の8割が法律か登記の話で占められる現場に、冗談はなかなか入り込めない。ちょっと砕けた話をしても、「で、結論は何ですか?」と返されることがある。そうなると、こちらのテンションだけが浮いてしまって居場所がなくなる。スベるというより、滑り込む隙間がもともとないのだ。法律業務におけるユーモアは、時にリスクでもある。

元野球部のノリが通じない現実

「元気があればなんとかなる」って、若い頃は本気で思ってた。野球部時代の「声出し」で場の空気を変える感覚が身についていたから、いまだにその癖が出る。でも今の仕事場では、それが通用しない。声を張れば張るほど、空気がよけい静まっていく。自分だけが浮いてる感じ。時代も違えば、場所も違う。ノリで通せる世界じゃない。

勢いと根性が笑いを引き寄せるとは限らない

昔は、勢いさえあればなんとかなると思っていた。バカをやって笑いを取って、それでチームの空気が良くなるならそれでいい、と。でも司法書士の現場は違う。勢いで口を滑らせた冗談が、そのまま信頼を落とす材料になることがある。根性を出しても、笑いは生まれない。それどころか、自分の“痛さ”が目立つだけ。勢いの方向を間違えると、ただの事故になる。

「お前誰だよ」って空気に凍る瞬間

初対面のお客さんに、親しみを持ってもらいたくて軽い一言を投げかける。でも相手の表情が固まったままだと、一瞬で「あ、失敗したな」と悟る。そのときの空気は、「お前誰だよ」と言われてるようなもの。言葉に出されなくても、空気が語ってくる。自己紹介が終わったばかりの相手に冗談を飛ばすなんて、そりゃ勇み足だった。空気を読めてなかった自分が恥ずかしい。

独身男の哀愁はジョークにならない

自虐ネタのつもりで「モテないんですよ」と笑ってみせたことがある。でも、それに対して「へえ…」と返されると、自分の存在ごと否定された気持ちになる。笑ってほしくて言ったのに、笑われない。なんか、哀れまれてる? そんな勘違いが頭をよぎって、急に黙りたくなる。独身ネタは取り扱い注意だ。

モテなさを笑いに変えられない日々

「どうせモテませんから」なんて自虐は、笑ってもらえたら武器になる。でもリアクションがなかったり、逆に同情されたりすると、笑いじゃなくて“痛み”になる。独身という立場が、ネタにできるほど軽くないことに気づく。笑いに変えるには、それなりの距離感とタイミングが必要。無理に笑わせようとしても、ただの寂しいおじさんになってしまう。

自虐は共感よりも痛みを呼ぶ

自虐ネタは共感を得られると思いがちだけど、実は使い方が難しい。とくに相手が年下だったり、あまり親しくない場合は、ただの「重い話」に聞こえてしまうことがある。笑わせようとしたのに、相手に気を遣わせてしまったら逆効果。自分の弱さをさらけ出した分、心がヒリつく。自虐は刃物にもなりうる。

それでも笑おうとしてしまう理由

スベっても、また笑わせようとしてしまう自分がいる。たぶん心のどこかで、人とつながりたいと思っているからだ。笑いはそのきっかけになると、信じている。でも、無理に笑わせようとしなくてもいいのかもしれない。ただ、そばにいる。そういう静かな優しさが、本当に必要なことなのかもしれない。

滑っても生きていくしかない

何度スベっても、恥をかいても、それでも明日はやってくる。どうせ生きるなら、少しぐらい自分を笑ってあげてもいいじゃないか。笑いは他人のためじゃなく、自分のためでもある。誰にもウケなくても、自分で「スベったなぁ」と笑えたら、それでいいのかもしれない。痛みと笑いは、きっと隣同士だ。

スベる人間にしか見えない景色がある

完璧に笑いを取れる人なんて、そうそういない。スベった経験があるからこそ、他人の痛みにも気づける。沈黙の空気に耐えてきた人間だからこそ、孤独な誰かを見つけられる。スベるということは、挑戦した証でもある。だから今日もきっと、私はまた何かを言ってしまう。そして、またスベるのだ。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。