急ぎの連続で心が置き去りになる
司法書士という仕事は、そもそも「急ぎの依頼」が多いものだとは理解していたつもりだった。でも、ここ最近は違う。「この件、急ぎでお願いします」が、まるで「おはようございます」と同じように日常の挨拶のように聞こえてくる。そんな日々が続いていると、自分の気持ちやリズムなんてどうでもよくなってきてしまう。今日もまた、朝から「急ぎで」と書かれたメールがスマホに並んでいた。時計はまだ7時半。朝ごはんの味も忘れてしまいそうになる。
「急ぎで」の一言に思考が止まる
「急ぎでお願いします」──この一言が書かれているだけで、他のすべての予定が停止する。何をどこまでやるべきだったか、一瞬でわからなくなる。まるでキャッチャーをしていた頃、突然ストライクゾーンに来たと思ったら直撃するような豪速球を受けたような気分だ。心の準備ができていようがいまいが、投げられたボールは止まらない。慌ててグラブを出して、何とか捕る。そんな感覚に似ている。
午前中の予定はすべて崩れる
たとえば、登記の申請準備を終えて、ようやく次の案件の整理を始めようと思ったその時に「急ぎで」が来る。登記の完了予定が詰まっている中、急ぎの案件をねじ込むことで、午前中の予定はすべて崩れる。「段取り八分」とか言ってる暇があるなら、手を動かせと叱られているような気持ちになる。頭では分かっていても、心が追いつかない。時間管理なんて絵に描いた餅。気づけば、予定表は真っ赤に塗りつぶされている。
結局今日も昼ごはんはカロリーメイト
「今日こそはちゃんとした昼飯を」と思っても、急ぎの処理が積み重なれば、そんな願いは夢のまた夢。コンビニにすら行けず、机の引き出しに常備してあるカロリーメイトで空腹を誤魔化す。誰にも咎められないけれど、誰も気づいてくれない悲しさ。食事がただの燃料補給になってしまう日が、こんなにも虚しいなんて、昔は思わなかった。
優先順位という言葉が意味を失う瞬間
仕事には優先順位をつけろと、あらゆるビジネス書に書いてある。でも、それが通用しない現場というのもある。どれも急ぎで、どれも大事。そうなったとき、いったい何を基準に動けばいいのか。迷った時点でタイムロス。結局、目の前にあるものから潰していくしかない。でも、それは戦略ではなく、ただの反射行動だ。
本当に急ぐべきことは何だったか
「急ぎです!」と書いてあるから優先したが、後で確認すると、実は数日猶予があったということも少なくない。じゃああの時、他の作業を進めていた方が良かったのかもしれない。けれど後からでは取り戻せない時間。誰が悪いというわけではないが、なんとも言えないもやもやが胸の奥に残る。そうやって判断の軸がブレていく。
後回しの山がまた積み上がる
一件を急いで終わらせるたびに、後回しにした他の案件が山積みになる。終わりなき山登りのようだ。後ろからどんどん登ってくる依頼に追われて、山頂どころか、どこまで登ったかすらわからなくなる。夜遅くにやっと一息ついた頃、メールボックスにまた「急ぎで」が届いている。ああ、明日の朝もまた同じなのか。
急ぎの依頼が常態化する現場のリアル
特別な状況ならまだしも、最近は常に「急ぎ」が当たり前になってきている。それはおそらく、クライアント側の事情だけではない。自分たち司法書士業界の「できるだけ早く対応する」という無言のプレッシャーが、結果的に自分たちの首を絞めている。急ぎを受けるたびに、誰かが無理をしているのだ。
依頼人は悪くないでもしんどい
依頼人を責めたいわけじゃない。急ぎを頼む側にも切実な理由がある。でも、だからといってこちらの体力や時間が無限にあるわけではない。たまに「すぐ対応してくれて助かりました」と言われると嬉しい反面、「これが当たり前になるのは勘弁してくれ」と心の中でつぶやいてしまう。感謝されるほど、つらくなることもある。
信頼の裏返しと言い聞かせるしかない
「急ぎで頼まれるのは信頼の証」と自分に言い聞かせてきた。でも、それだけじゃやってられない日もある。信頼の裏返しに押しつぶされそうになるとき、ふと、「自分はこの仕事をどこまで続けられるのだろう」と思ってしまう。自分に向けられた信頼を大事にしたい気持ちと、自分の限界の間で、いつも揺れている。
事務員にも無理をさせてしまう
一人で対応できないとき、どうしても事務員に頼るしかない。無理を言っているのは分かっている。でも彼女も人間だ。「急ぎばかりですね」と苦笑いされるたびに、罪悪感がこみ上げる。給与を上げてあげたい気持ちと、実際の経営状況とのギャップがつらい。頑張ってくれてるのに、報いきれない自分のふがいなさを感じる。
ありがとうとごめんのバランス
何かを依頼するたびに「ありがとう」と「ごめん」が交錯する。でもそれを毎回言葉にするのも、逆に疲れてしまう。事務員との関係も、依頼人との関係も、言葉ではカバーしきれない空気のやり取りが多すぎる。「ありがとう」と言えば感謝が足りない気がして、「ごめん」と言えば謝りすぎになる。どちらも本心だけれど、いつもどこか不器用にしか伝わらない。
元野球部の精神論では片付かない
高校時代、野球部で培った根性は、社会に出てからの最初の武器だった。でも、40を超えたあたりから、その根性だけでは限界があることを嫌でも思い知らされるようになった。筋肉痛は翌日じゃなく、翌々日にやってくるし、気合だけでどうにかなる案件なんてひとつもない。精神論はもう通用しない。
根性論はもう通用しない
「気合いで乗り切れ」は、昔は心の支えだった。でも今、それはただの自分いじめにしかならない。無理をしても誰も褒めてくれないし、結局疲弊していくだけだ。しかも、無理をした分だけ「この人はこれくらい普通にできる」と思われて、次も同じ無理を期待される。その悪循環から抜け出せない。
体力だけで乗り切れる年齢は過ぎた
若い頃なら、徹夜も苦じゃなかった。だが今は、夜中に一度起きたら眠れなくなる。集中力も続かない。依頼が立て込んでくると、翌日の段取りもままならない。疲れが蓄積していくのが、自分でも分かる。もはや気合いではどうにもならない年齢なのだ。そう実感するたびに、なんとも言えない寂しさが襲ってくる。
「声を出せば元気になる」はもう嘘
野球部の頃は、声を出せば元気になると本気で思っていた。だから仕事中でも、意識してハキハキ話すようにしていた。でも今は、声を出すだけで疲れてしまう時がある。元気の出し方がわからなくなった。だから、静かに淡々と仕事をするしかない。誰にも頼られず、誰にも頼らず。声を出さないことで、ようやく自分を保てる日もある。
愚痴を言っても進まないと知っているけど
愚痴を言っても、仕事は減らないし、疲れも取れない。それは分かってる。でも言わずにいたら、自分が壊れてしまいそうになる。だから、こうして文章にして吐き出しているのかもしれない。誰かが読むかもしれないし、誰にも読まれないかもしれない。でも、そうやって誰かと「共感」だけでもつながれたら、それで少しだけ救われる気がする。
それでも言葉にしないと心が折れる
人に会えば、「忙しいでしょ」と言われる。それに「まあまあですね」と笑って返す。でも心の中では、「忙しいを通り越してる」と叫んでいる。弱音を吐くのはかっこ悪いと思っていたけれど、今は、言葉にしなければ自分を見失いそうになる。せめてこの文章が、同じように感じている誰かの支えになればと思う。
愚痴があるから続けられる日もある
本音を吐ける場所があるというのは、やっぱり大事だ。誰にも見せられない愚痴があるから、明日もまた事務所のドアを開けられる気がする。理屈じゃなく、感情で踏ん張ってる。そんな日が続いている。独身で、モテなくて、日焼けした過去しか誇れるものがないけど、それでも自分なりに、今日も頑張っているんだと思いたい。