ふと気づけば忙しいふりばかりしていた
朝、事務所に入ってまずやるのは書類を机に広げること。開けたままのファイル、途中の付箋、傍らに積まれた六法。まるで映画のワンシーンみたいに「忙しい雰囲気」を整えるのが日課になっていた。ところがある日、自分でその姿をふと客観的に見てしまった瞬間があって、愕然とした。中身のない「忙しさ演出」に、どれだけのエネルギーを使っていたのか。情けなくなった。誰かに頼まれたわけでもないのに、いつしか本当に「忙しいふり」が習慣になっていたのだ。
本当に忙しいのかそれとも逃げているだけなのか
司法書士という仕事は、繁忙期とそうでない時期の差が激しい。年度末や登記集中時期は本当に目が回るほどだが、それ以外の時期は案外ゆったりしている。しかし「暇にしていると不安になる」という感情がある。書類を整理したり、相談案件を見直したり、手を動かすこと自体は嫌いじゃない。ただ、誰かに「暇そうだね」と言われるのが怖くて、あえてデスクに向かっている。多分、暇であることを認めるのが怖いのだ。
人に頼られたいだけだったのかもしれない
元野球部でエースを任されていたころの名残かもしれない。チームの中心にいたい、頼られたい、そんな性分が未だに抜けていない。「あの人忙しそうだから頼むのやめとこう」ではなく、「忙しそうでも、あの人にお願いしよう」と思われたい。そんな妙なプライドが、知らず知らずに自分を縛っていた。無理して詰め込んだスケジュール帳、意味のない外回り、全部「存在価値を証明したい」がための行動だったような気がする。
暇を持て余す怖さと向き合えなかった
独身で家に帰っても一人。趣味といえばせいぜい晩酌かテレビで野球観戦くらい。だから仕事が終わると、何もない空間に放り出される気分になる。暇な時間が怖かった。誰にも会わず、誰にも認められず、ただ時間だけが過ぎていく。それが怖くて、あえて仕事を作っていた。今思えば、それは「自分の存在を保つための儀式」だったのかもしれない。
机に広げた書類は自分への言い訳
きれいに整頓された机より、ちょっと散らかった机の方が「できる司法書士」に見える気がしていた。六法が開きっぱなし、申請書が積み上がったファイル、未読の郵便物。これらはすべて、自分がサボっていない証明書のようなもの。誰かが見るわけでもないのに、何かに備えてそうしていた。忙しくなければ価値がない、という思い込みが、机の上に表れていたのだ。
とりあえず何かしてる感が欲しかった
実際には一つも重要な作業をしていないのに、「何かしている」ふりをしていることが多かった。メールの返信を後回しにしてわざと後でやったり、来客があると見越して大げさに電話帳をめくったり。どこかで「誰かに見られてる」という意識が抜けなかった。司法書士事務所は小さいが、事務員の目は意外と鋭い。「あ、この人いま何もしてないな」と思われたくないだけで、見栄を張り続けていた。
効率より存在感を優先してしまう日々
本来なら効率的に終わらせて早く帰るのが理想だ。だけど私は、わざとだらだら仕事をしてしまっていた。帰っても何もないからだ。独身だし、恋人もいないし、家で待ってるのは冷えた部屋だけ。なら事務所で灯りの下にいる方がまだマシだと思ってしまう。だから存在感を維持するために、非効率な「忙しさ」を演出してしまう。仕事ではなく、自分自身の寂しさと戦っていたのかもしれない。
誰も見ていないのに演じ続けてしまう理由
気づけば、演じることが自分にとって「仕事」になっていた。誰も見てないとわかっていても、忙しそうにする。電話が鳴っていなくても受話器に手を置いてみたり、書類に無意味にサインしてみたり。心のどこかで「この姿こそがプロフェッショナル」だと思い込んでいた。でも現実は違う。誰もそんなこと見ていないし、見られても評価されない。むしろ、空回りしていたのは自分だけだった。
事務員にだけはバレている
私のこの「忙しいふり芸」も、唯一バレている相手がいる。事務員だ。たった一人しかいないけれど、毎日一緒に働いていると、こちらの挙動はすべてお見通しだ。彼女の目が冷ややかに感じることがある。それでも指摘はしてこない。けれどあの目が痛い。あれが一番効く。
一人事務所の静かな監視役
事務員という存在は、私のような“自営業のおじさん”にとって、時に上司のようでもあり、時に同僚のようでもある。あまりに気を抜いた動きをすると、無言の視線が飛んでくる。書類の順番が違っていたときのため息、ファイルを戻し忘れたときの黙った片付け。そういう細かい「気づき」で、自分の演技が見透かされていることを知るのだ。
先生またやってるそんな視線の圧力
視線に含まれる無言のメッセージ。「ああ、また忙しいふりしてるな」「また机の上だけ盛ってるな」…その通りなのだ。でもその通りすぎて何も言えない。目が合った瞬間に気まずくなり、こっちはごまかすように咳払い。そんなやりとりが積み重なっていく。バレてるのにやめられないのは、たぶん、癖なんだと思う。
それでも辞められない演技癖
「楽になればいいのに」と自分でも思う。でもなぜかやめられない。忙しくしてないと、なんだか取り残される気がして。世の中がどんどん流れていく中で、自分だけが止まってしまう気がして。そんな焦りがある。だから、今日もまたファイルをわざと広げ、書類を出して、書く必要のないメモを書いている。本当はそんなことしなくても誰も困らないのに。
演じるのをやめてから変わったこと
ある日、事務員に言われた。「無理しないでくださいね」って。その一言が胸に刺さった。ああ、もうバレてるんだなって。そして、もうやめてもいいんだなって思えた。それから少しずつ、忙しそうに見せるのをやめてみた。最初は不安だった。でも、案外何も変わらなかった。いや、むしろ少しずつ心が楽になった。
暇そうにしてみたら意外と世界は優しかった
暇そうにしていると、相談がきたり、声をかけられたりした。「あれ、先生ちょっと余裕ありそうだから聞いていいですか?」って。それでいいんだなと思った。忙しそうにして壁をつくっていたのは自分の方だった。暇そうでも、ちゃんとやることをやっていれば信頼はされる。そう気づけたのは大きかった。
仕事の質よりペースを大事にするようになった
仕事をたくさんこなすことより、自分のペースを守ることが大事だと思えるようになった。それは効率化とはまた違う。焦らず、でも丁寧に。そうすることで、逆にミスも減ったし、気持ちの余裕も出てきた。忙しそうにしていたときには見えていなかったものが、少しずつ見えるようになった。
自分の機嫌を取ることが一番の業務効率化だった
誰かに認められたい、頼られたい、そんな思いで自分を押し殺していた。でも結局、誰よりもまず自分の機嫌をとることが大事だった。コーヒーをゆっくり飲む時間、散歩する余裕、昼休みに笑う時間。それがあるだけで、ずいぶんと毎日の見え方が変わってきた。演技じゃなく、本当に「忙しい日」もある。でもそれは、ちゃんと心を整えてから迎えるべきなんだと今は思っている。