書類に独身でと書くたびに胸がざわつく日々

書類に独身でと書くたびに胸がざわつく日々

独身という文字に反応してしまう瞬間

仕事柄、書類に目を通すことも、記入することも多い。司法書士という職業は、正確さが求められる世界だ。住所、氏名、資格、そして「独身か既婚か」。何の感情も持たずに処理すればいいのに、その「独身で」という一言が、たまらなく胸をざわつかせる。たかが記号、たかが事実。そう割り切りたいのに、割り切れないのが人間だ。毎回書くたびに、自分自身の生活と向き合わされているようで、しんどくなる。書類というのは、案外、心を写す鏡なのかもしれない。

たった三文字が心をえぐる

「独身で」たったこれだけの記述が、どうしてこうも刺さるのか。まるで心の中にひと針、針を刺されるような感覚になる。別に誰に責められているわけでもない。ただの項目、ただのチェック欄。それでも、自分自身が「まだ何も築けていない」ように感じてしまう瞬間がある。そんな日はたいてい、家に帰っても冷たい空気が迎えてくれるだけ。自炊する気力もなく、冷蔵庫の中には納豆とビールしかない。やり場のない感情は、静かに沈殿していくだけだ。

家族欄を空白にするたびのため息

戸籍に関する書類や、会社設立に関わる届け出では「配偶者の有無」や「世帯の構成」といった項目が頻繁に出てくる。そのたびに、家族欄が空白のままになるのがつらい。誰もいない、という事実が、空欄によって強調されているような気がしてならない。書き込む欄がないのだから、それでいいはずなのに、なぜか「何も書けない自分」が情けなく感じる。結婚がすべてではないと頭ではわかっていても、社会のフォーマットがそれを求めていると感じる瞬間がある。

提出した書類が返ってくるときの虚しさ

行政から戻ってきた書類をチェックしていると、こちらが書いた「独身で」の文字が、まるで誰かに読み上げられたかのような気持ちになる。そこに何のコメントがあるわけでもない。担当者が何かを思うはずもない。でも、自分の中では「また返された」という妙な敗北感に似たものが押し寄せてくる。書類を処理するだけの毎日なのに、その処理の中に潜んでいる孤独の影は、想像以上に濃い。

司法書士としての責任と独りの現実

依頼者の大切な登記や権利関係を扱う仕事。人の人生の一部を担っている自負はある。だが、自分の生活は、どうだろう。きちんと整っているとは言いがたい。仕事は回っている。だが、回っているだけで、生きている実感が薄い。誰かの支えになっていると感じる一方で、自分には支えてくれる誰かがいない。その現実を、ふとしたときに痛感する。誇りと孤独が同居する仕事、それが今の司法書士としての自分の姿だ。

登記はスムーズでも心は引っかかる

業務そのものはスムーズにこなせている。登記のミスもなく、依頼者とのやりとりもそつなくこなしている。でも、心のどこかでずっと引っかかっていることがある。それは、誰のために仕事をしているのか、ということだ。依頼者のためだし、生活のためでもある。でも、「家族のため」という目的を持つ人を見ると、少しだけ羨ましい気持ちになる。自分は何のために頑張っているのだろうかと、自問してしまう。

事務員との距離感と気遣いのバランス

一人でやってきた事務所に、事務員を雇ってから、少しだけ空気が変わった。仕事の効率は格段に上がったし、雑務に追われることも減った。だが、その分、気を遣う場面も増えた。年齢差、性別、立場の違い。フラットな関係を築きたいが、それがかえってぎこちなくさせることもある。特にプライベートな話題になると、自分が独身であることが会話の終着点になりがちで、なんとも言えない空気が流れる。

繁忙期に家族サービスとは無縁な土日

同業者と話していると「土日は家族サービスで…」という言葉をよく耳にする。自分にとっては、その「家族サービス」という時間は存在しない。土日はむしろ仕事を片付けるチャンスであり、静かな事務所で集中できる時間でもある。でも、それは裏を返せば「誰にも必要とされていない時間」ということでもある。家族がいないことは、時間の自由を意味するが、同時に孤独を深める材料にもなる。

元野球部という肩書も今や無言の鎧

高校時代、野球部だった。毎日泥だらけになって練習して、声を張り上げていたあの頃。仲間と笑って、悔し涙を流して、将来のことなんて深く考えていなかった。あの熱量は今も心のどこかに残っているはずなのに、今の自分を見て「燃えている」と言えるだろうか。名刺に書くわけでもない、プロフィールに載せるわけでもない「元野球部」は、今では自分を鼓舞するための静かな肩書になっている。

勝ち負けだけじゃない人生の試合

野球部時代、勝った負けたで一喜一憂していたが、社会に出てからは勝ち負けでは語れない出来事の方が多い。司法書士として案件をこなしても、点数がつくわけではない。むしろ、ミスがないことが当然で、評価されることすら少ない。誰かに勝った、という満足感よりも、誰にも気づかれないまま疲れていく感じがする。そんな中で、「独身で」と書く一文が、自分の人生の勝敗を象徴しているように見えるのは、考えすぎだろうか。

あの頃の声援と今の静けさ

試合の日、スタンドからの声援が力になった。応援してくれる人がいるという実感は、走る原動力になっていた。でも、今の自分には、そうした声はない。事務所にはラジオの音と、パソコンのタイピング音しかない。依頼者からの感謝の言葉はあっても、それはどこか業務的で、心の支えになるには弱い。心のどこかで、あのスタンドの声を求めているのかもしれない。

バットは握らなくても何かを守っている

もうバットは握っていない。でも、今の自分にはペンと判子がある。それで誰かの権利を守っている。誰にも見えない場所で、誰かの人生を支える仕事をしている。それって、ある意味では野球よりも責任が重いとも言える。でも、どこかで「このままでいいのか」と思ってしまう自分がいる。誰かのために、じゃなく、自分自身のために守るものがあってもいいんじゃないか。そう思う日が、最近は増えてきた。

ネガティブな自分を受け入れる練習

これまで、ネガティブな感情は「良くないもの」だと思ってきた。でも、最近は少しだけ考え方が変わってきた。ネガティブになるのは、それだけ現状に違和感を覚えている証拠。つまり、もっとよくしたいという気持ちの裏返しでもある。そう思えるようになってから、少しだけ自分を許せるようになった。独身であることも、孤独も、全部含めて「自分」という存在なのだ。

他人と比べる癖をどうにかしたい

「あの人は結婚している」「あの人は子どもがいる」そんなふうに比べても意味がないのはわかっている。でも、SNSで流れてくる写真や近所の声を聞くと、やっぱり心がざわつく。幸せそうな家族写真を見ると、自分が何かを逃してきたような気になる。けれど、そこに写っていない苦労もあるはずだ。表面だけで判断して、自分を貶めるのは、もうやめたいと思っている。

それでも誰かの役には立っている

ふとした瞬間に、依頼者からの「ありがとう」が響くことがある。それが一言だけでも、妙に心に残る。その一言のために、この仕事を続けていると言っても過言ではない。結婚もしていないし、子どももいない。だけど、誰かの人生にほんの少しでもプラスの影響を与えているなら、それで十分なんじゃないか。そう自分に言い聞かせて、今日も書類に向かう。

書類に書くのは情報だけじゃない

「独身で」と書くとき、情報としての記述以上に、自分の感情や背景までも記入しているような気がしてしまう。でも、それでいいのかもしれない。書類には人の生活がにじむ。その中に、自分の人生も溶け込んでいく。独身という事実もまた、今の自分をつくる大事な一要素だ。だから、今日もまた丁寧な字で書く。「独身で」と。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓