序章 忘れられた権利証
雨の音が単調に屋根を打つ。古びた事務所の壁越しに響くそのリズムは、梅雨時の憂鬱さに拍車をかけていた。今日も一日、地味で面倒な書類と向き合うことになるのかと思っていた、その時だった。
電話が鳴った。受話器の向こうから聞こえてきたのは、やけに震えた声の女性。「法定地上権について、相談があるんです……」。その言葉が、全ての始まりだった。
雨の朝に届いた一本の電話
その依頼は、一見するとありふれたものだった。借地の上に建つ家が相続の対象になったという。しかし、話を聞くうちに、その土地に妙な空気が漂い始めた。登記簿と照らし合わせた内容がどうにも噛み合わないのだ。
ふと彼女が言った。「実は、そこの家、昔の恋人が住んでいたんです」――そう呟いた瞬間、書類がただの紙切れから、感情の乗った記録へと変わった気がした。
依頼人は元恋人の婚約者
さらに聞けば、相談者の女性は、亡くなった男性の婚約者であり、遺産分割協議に巻き込まれていた。だがその遺産に含まれるはずの土地建物に「法定地上権」が成立しているというのだ。
なぜかはっきりとした権利関係が示されていない。やれやれ、、、これは面倒な匂いしかしない。
疑惑の底地と法定地上権
謄本を取り寄せ、目を通してみる。甲区、乙区ともに何度も書換えられた跡がある。そして問題の家屋の土地には、借地権の登記がない。つまり、建物の所有者には法定地上権が成立している可能性があるということだ。
だが、その割に、最近になって固定資産税の通知先が変更されていた。つまり、誰かがこの地上権の存在を前提に動いている。誰が? なぜ?
法務局の登記簿に刻まれた違和感
あるはずの記録がない。ないはずの記載が残っている。いつもながら登記簿は、嘘も真実も並列に記してくる。サザエさんの波平よろしく「うっかり訂正忘れ」で済ませたくなる気持ちを抑えつつ、慎重に過去の履歴をたどっていく。
過去10年分の変更記録を精査していくと、どうも奇妙な所有権移転が1件見つかった。それは、相続でも売買でもなく、贈与だった。
借地権と謎の固定資産税通知
贈与された家屋と、通知先が一致しない土地。このズレこそが鍵だった。本来、土地の所有者が変われば借地契約も更新が必要になる。だが、地上権を成立させたことで、それを回避したような印象がある。
これは偶然ではない。何者かが意図的に「地上権」を使って契約を偽装している――そう考えると、全てが繋がった。
サトウさんの冷静な分析
「この登記、意図的に借地権を外していますね」。サトウさんは、何気なく呟いた。こちらが数時間かけて辿り着いた仮説を、彼女は一瞬で見抜いたようだった。
ああ、また負けたなと、思いながらも頼もしさを感じる。
無愛想だけど正確無比な推理
彼女はパタパタと登記情報を印刷しながら言った。「この土地、固定資産税の通知先がなぜ変わったのか、それがヒントです。つまり、地上権を装って土地をタダで使い続けるために、一連の操作がされたと考えるべきです」。
冷静で的確。そして無表情。まるでコナン君が灰原になったみたいだ。
「所有者が2人いるのが変なんです」
土地の名義は変わっていないが、建物は別の人間の名義になっている。しかも相続の形跡がなく、贈与で移転されていた。なぜか。
「それ、亡くなった人が生前にやったんでしょうね。恋人のために」。サトウさんがぼそりと呟く。その声が、やけに静かに響いた。
恋の名残と相続の罠
亡くなった元恋人は、土地を持たずに家を遺した。それは、自分がいなくなっても彼女が住み続けられるように――そんな愛の形だったのかもしれない。
だが、その「優しさ」が、今の相続トラブルを引き起こしているのだ。
乙区に浮かび上がる知られざる契約
古い登記の一行。そこに「使用貸借契約」の文言が残っていた。つまり、本当は借地契約ですらなかったのだ。口約束で住まわせていた建物に、死後に法定地上権が成立するという皮肉。
法律の隙間に浮かぶのは、愛か、それとも責任の放棄か。
亡き元恋人が遺した登記の痕跡
調べるうちに出てきた、ひとつの補正登記。そこには彼の直筆で「彼女に何も遺してやれないが、せめてこの家だけは」と書かれていた。
「やれやれ、、、この仕事、時々泣きそうになるよな」。思わず独り言が漏れる。
司法書士の逆転劇
相続人らと協議し、補正登記と遺贈の意思表示に基づいて、法定地上権の正当性を主張した。結果、相手方も納得し、登記が認められた。
恋の記憶が、制度の網目をくぐり抜けて、ようやく形になった瞬間だった。
補正登記と証明責任の攻防
「あなたの証言と、この筆跡が鍵でしたよ」。女性にそう伝えると、彼女は少しだけ目を潤ませた。恋は消えても、形にすることはできる――司法書士の仕事とは、そういうことだ。
「彼、きっと笑ってますね」。その言葉に、なんとも言えない気持ちになる。
法定地上権が導いた恋の結末
サトウさんは淡々と書類を閉じ、「じゃあ、この件は完了で」と言って立ち上がった。その一連の所作に、余計な感情などひとかけらもない。だが、きっと、少しは感じてくれたはずだ。
「人が人に残すものって、紙だけじゃないんだな」。そう呟くと、彼女は小さくうなずいた。
そして日常へ戻る
事件が終われば、いつも通りの事務所。サトウさんはまた無言でコーヒーを淹れ、書類の山に向かっていく。
俺はと言えば、古い写真に映る二人を見ながら、ひとつため息をついた。「やっぱり俺には地面しか残ってないか、、、」