朝一番の来訪者
朝の事務所はまだ冷えきっていた。ポットのスイッチを入れようとしたその時、入り口のチャイムが鳴った。時計を見るとまだ午前八時三分。いつもより三十分も早い。
「ごめんください」現れたのは、スーツ姿だがどこか挙動不審な中年男性だった。私の顔を見て一礼し、住民票を手渡してきた。「ここに記載されていないことが、あるんです」
書類に目を落とすと、確かに。住所欄が空欄のままだった。だが、彼の表情にはそれ以上に何かを訴えるような、焦りと不安が混じっていた。
サトウさんの睨みと無言の圧力
「不自然ですね」と呟いたのは、いつも通り無表情のサトウさんだった。朝のコーヒーを一口すすりながらも、視線は鋭い。「記載漏れですか?」
依頼人は曖昧に笑ってごまかした。「いえ、区役所に確認したら、こう出てきたんです。でも、私はずっと同じ場所に住んでいるんですよ」
サトウさんは何も言わず、すっと裏紙にメモを取り始めた。私はその手元を見ながら、心のどこかでまた面倒な予感が膨らんでいくのを感じていた。
妙に無愛想な依頼人
話が進むにつれて、依頼人の態度に不信感が募ってきた。質問をすればするほど答えが曖昧になり、視線は私たちから遠ざかっていく。
「住民票が空欄になることって、あるんですか?」と聞かれたとき、私はうっかり「たまにありますよ、役所のミスで」と言ってしまった。
その瞬間、サトウさんの手が止まり、睨まれた。「役所は、そんなミスしません。意図的じゃないならね」
空欄のある住民票
コピーをとった住民票を見つめる。確かに住所欄は空白だが、他の情報はきちんと記載されている。不自然なほど、他は完璧だった。
「これは、、、様式の印字ズレじゃないですよね」私は頼りない推理を口にした。だが、それはすぐに否定される。
「印刷ズレなら、もっと全体に影響出るはずです」サトウさんの言葉には、いつもながら反論の余地がない。
住所欄の空白が意味するもの
空欄。それは単なる未記載ではなく、情報の「消去」を意味しているのかもしれない。そんな仮説が頭をよぎった。
「誰かが意図的に、ここだけを空欄にした?」口に出した瞬間、依頼人の顔色が変わったのを見逃さなかった。
だが彼は「いえ、本当に何も知りません」と繰り返すだけだった。その口調が逆に、何かを知っているように聞こえた。
元の記録は本当に存在していたのか
私は役所の窓口に連絡し、原本の記載状況を確認した。ところが、「該当情報は確認できません」との返答が返ってきた。
「まるで、最初から住所がなかったかのように記録が消されてる」と私は呟いた。これは普通の住民票じゃない。
「やれやれ、、、また厄介な匂いがしてきたぞ」と、思わず昔の名探偵アニメのように独り言をこぼした。
古い台帳と不一致な記載
私は昔の町内会の記録を調べることにした。事務所に保管していた引継資料の中から、ある名簿を見つける。
そこには、件の依頼人が十年前から確かにその住所に住んでいたと記録されていた。つまり、情報は「あった」のだ。
「これは、、、消された記録だな」まるでルパンが痕跡を残さず侵入したように、住民票からだけピンポイントで情報が抜かれていた。
図書館の片隅で見つけた一冊
サトウさんが地域資料を調べに図書館へ行き、ある古い地図を見つけてきた。「この住所、今は別人が住んでいます」
私は愕然とした。依頼人が今も住んでいると主張していたその住所は、すでに他人の所有になっていたのだ。
「二重の住民登録、、、いや、これ、もしかすると他人の戸籍を使った何かだな」と私は直感的に思った。
住基ネットに残された痕跡
最終的に、サトウさんが住基ネットの記録履歴に着目した。個人が閲覧できない部分だが、弁護士の協力で一部を確認できた。
そこには、四年前に「訂正削除処理」があった記録が残っていた。しかも、申請者の名義は依頼人ではなかった。
「この依頼人、誰かの指示で書類を持ってきた使い走りね」とサトウさん。私は小さくうなずいた。
シンドウのうっかりとヒント
私は、彼の渡した封筒の中にあった別の書類を机に放り出したままだった。ふと、それに気づいて手に取る。
「これ、、、固定資産税の通知書じゃないか」そこには今の所有者の名義が記されていた。しかも、宛名は依頼人の兄。
「兄の住民票を、、、自分のように使ってる?」唐突に疑念がよぎった。
焼きそばパンとインク汚れ
昼休み、焼きそばパンを食べようとして封筒にインクを落としてしまった。慌てて拭くと、下から別の筆跡が見えた。
消しきれていなかった宛名の痕跡。それは確かに、兄の名前だった。「やれやれ、、、最後はパンに助けられるとは」
私はうっかりミスの産物に感謝しながら、真相の糸口を掴んだ。
サトウさんの推理と指摘
「つまりこうです」サトウさんがホワイトボードに書き出す。「依頼人は兄の戸籍を使って、架空の住所に住んでいたと偽っていた」
「住民票の空欄は、削除された結果。もともと兄名義の情報だったが、誰かが消させた」
そして、最後に「自分の過去をなかったことにするため、あえて空白を作ったのかもしれません」と締めくくった。
記載漏れではない意図的な削除
これはミスじゃない。意図的な削除だった。誰かが、あるいは本人が自ら過去を消した。だが、その痕跡は必ず残る。
書かれなかったものこそが、真実を語る。それが今回の教訓だった。
「法務局の目をごまかすには、あと二手足りなかったな」私は名探偵コナン風に呟いた。
最後の登記としょっぱい現実
事件の真相は突き止めたが、依頼人は音信不通となり、正式な登記依頼も立ち消えになった。
「報酬ゼロ。やるせなさ百」私はため息をついて椅子にもたれかかった。
「まあ、何も起こらないよりは、いいでしょう」サトウさんが冷めた声で言った。
結局依頼は白紙に
こうして、今回の事件は記載も報酬もないまま終わった。私の机の上には、空欄の住民票だけが残された。
やれやれ、、、何のために朝から働いたのやら。
だがその白紙こそ、確かに誰かが隠した過去の証拠だった。
事務所に戻った静かな夕方
夕方、誰もいなくなった事務所で、一人残った私は扇風機の風に吹かれながら麦茶をすする。
サザエさんのエンディングのように、なんとなく今日も「また来週」と言いたくなる1日だった。
明日もまた、どこかの空欄が私を呼ぶのかもしれない。