エンターキーの遺言
朝から雨。湿気を含んだ空気が、事務所の古いカーペットに染み込んでいる気がした。届いた封筒の角は濡れていて、字が滲んで読みにくい。登記の依頼かと思ったが、中に入っていたのは一枚のメモとUSBだった。
曇り空と届かぬ登記依頼
「依頼じゃなくて、これは警告かもしれませんね」サトウさんが目を細めてつぶやく。USBに添えられたメモには『もし私が死んだら、この中を見てください』とだけ書かれていた。まるで古典的なミステリー漫画の導入のようだった。
パソコンが語った第一の異変
古いノートパソコンにUSBを差し込む。すると一つのワードファイルが自動で立ち上がった。タイトルは「最終契約書」。しかし内容は空白で、最終更新は「死亡推定時刻の一時間前」。つまり、誰かが殺される直前に、これを開いていた。
サトウさんの無慈悲な指摘
「エンターキーの使用回数、妙に少ないですね。誰かが途中で作業を止めたか、逆に打たずに意図的に保存した可能性があります」そう言って彼女は僕の画面を押しのけてログファイルを表示する。彼女にかかれば、Windowsも白状せざるを得ないらしい。
データ消去のタイミング
調べるうちに、ログイン後約7分でファイルが上書き保存されていたことが判明した。しかも、エンターキーが押された形跡はその前後になかった。誰かがパソコンの電源を入れ、ファイルを開き、そして何もしないまま上書き保存をした……。
被害者は地元の不動産業者
名前は伏せるが、土地取引で名前が出ない日はない男だった。登記の相談を何度か受けたことがあるが、やりとりはいつも一方的だった。「あの人、最近揉めてましたよ」近所の噂を聞き、地元のカフェで話を聞いた。どうやら不動産売却を巡るトラブルがあったらしい。
誰が最終ログインしたのか
操作ログによれば、最後にパソコンにログインしたのは被害者のID。しかし、ログイン時間が死亡推定時刻を過ぎていた。誰かが彼の死後にPCを操作したのだ。つまり、それが犯人の痕跡だ。
動機は所有権移転か私怨か
USBに入っていたバックアップには、売買契約書の草稿が残っていた。相手方の名前には、なんと被害者の甥の名前が。あの青年、以前相続登記の相談に来た時、やけに不動産に詳しかった。「あの家、もうすぐ俺のモンすから」と呟いていたのを思い出す。
指先が示す真犯人の痕跡
調査を進めると、キーボードの右端、エンターキーにだけ微量の皮脂が残っていた。鑑定結果は、甥の指紋一致。だがそれだけでは決め手に欠ける。もっと確実な「証拠」が必要だった。
打鍵ログと数字の矛盾
パソコンに残されたタイピングのログから、死亡推定時刻直後に「登録免許税」という単語が一度だけタイプされていた。その言葉に反応したのは、司法書士である僕だった。普通の人間は、そんなワードはまず使わない。
やれやれ、、、エンターひとつで人生が終わるとは
「つまり、彼は自分で証拠を残したんですね?」とサトウさんが静かに聞いた。「いや、きっと自分が死んだら、僕らが見つけると信じていたんだよ」そう言いながら、僕は彼の最期のエンターキー操作に思いを馳せた。やれやれ、、、一打の重さを知るには遅すぎた。
サザエさんと同じ曜日の罠
事件は日曜夜に起きた。そう、ちょうどサザエさんが終わる頃。町が静かになり、誰もが憂鬱を感じる時間だ。犯人にとっては、記憶に残りにくい時間帯だったに違いない。
USBの中の古い誓約書
もう一つのファイルには、被害者と甥との間で交わされた「無償譲渡しないこと」という誓約が残っていた。これで動機は明確だ。甥は財産を手に入れるため、誓約書を削除し、遺言を偽装しようとした。
暗証番号が語る遺産の行方
PCに残された暗号化ファイルのパスワードは「meiwaku」だった。業者にとって、甥は常に「迷惑」な存在だったらしい。皮肉な遺言だが、それが事件を解く鍵になった。
サトウさんが微かに笑った
「それにしても、意外と感情的な人だったんですね。あの被害者」サトウさんの口元が珍しく緩んだ。僕はうなずきながら、ようやく事務所のコーヒーを飲んだ。ぬるくなっていたが、不思議と旨かった。
真犯人はキーボードの向こう側に
甥は逮捕された。証拠はそろっていた。だが、真に恐ろしいのは、人がエンターキー一つで他人の命も人生も操作できることだろう。キーボードの向こうにあるのは、ただの文字列じゃない。それが「遺言」として残る時代なのだ。
正義の登録免許税は軽くない
手続きを終えたあと、事件報告書を閉じた。登録免許税は被害者の遺志により免除できなかった。正義にもコストがある。やれやれ、、、また今月も赤字かもしれない。