朝一番の違和感
その朝、机の上に置かれていた封筒には、どこか違和感があった。中身は登記関係の委任状一式。だが、決定的におかしい点がひとつあった。
「署名欄が、、、空白?」僕は思わず声を漏らした。依頼書類にしてはあまりにも不自然な未記入だった。
依頼人の姿もないまま、ただ封筒だけが届けられていたのだ。
封筒の中の未記入書類
中を改めて確認してみると、住所も印鑑もある。だが、署名だけがぽっかり抜けていた。まるで、意図的にそこだけを避けたような空欄だった。
「うっかり、、、じゃないよな」心の中でそうつぶやく。僕自身が“うっかり司法書士”を名乗ってはいるが、今回は違う。確信があった。
この書類は、誰かが“愛”を込めるのを拒んだ痕跡だ。
依頼人は現れなかった
午前中いっぱい待ってみたが、依頼人はついに現れなかった。電話番号も書かれていない。手がかりは、送付元の住所と、書類に押された印影のみ。
「これ、、、どう思います?」と、背後からサトウさんの冷たい声。デスクに座りながら、視線だけを僕に向けてきた。
あの無駄のない動きと、心を読まれるような目つきにはいつも勝てない。
サトウさんの冷静な推測
「記入漏れじゃなくて、わざとですよ」彼女はそう言い切った。デスクの上には、過去の登記情報が並べられていた。
「これ、先月提出された類似の書類と酷似してます。もしかすると、、、偽装?」
その言葉に背筋がぞくりとした。単なる事務ミスでは済まされない香りが漂い始めた。
記入漏れか、それとも故意か
たしかに、委任状の文面は明らかに誰かのテンプレを流用したものだった。字体も、文言のクセも、そしてミスの仕方までも。
「愛がないね」僕はつぶやいた。するとサトウさんは小さく鼻で笑った。
「記号を入れちゃいけないのと同じで、心を込めたらバレるんですよ、こういうの」
過去の依頼履歴に怪しい点
司法書士会の内部システムで過去の依頼を洗ってみると、同じ姓の女性から似たような申請が何件もあることが判明した。
しかもすべて、依頼人の署名が書かれていないか、怪しい筆跡だった。すでにこの地域では有名な地上げ屋の名も浮かび上がってくる。
「なるほど、書類の中に潜む怪盗キッドか」僕はひとり、軽く苦笑した。
登記簿と照合された真実
管轄法務局の閲覧システムで確認すると、現在の所有者名義はたしかにその女性。しかし、遡っていくと不自然な相続と贈与の連続。
「相続ってより、パス回しだね。サッカーのオフサイドスレスレ」
そう言いながらも、妙なひっかかりが消えない。何かもっと重大な誤魔化しが隠されているような気がした。
所有者の署名が二種類存在する
一通の古い委任状を取り出すと、今回のものと同じ名前が違う筆跡で記されていた。これは明らかに偽造だ。
だが、その筆跡はどこかで見覚えがある。昔、ある依頼者が口癖のように使っていた文字の“跳ね”の癖だった。
「やれやれ、、、こういうところで再会するとは」僕は思わず、椅子にもたれかかった。
「これは本人じゃないですね」
サトウさんが静かに言った。「前に相談に来た“元夫”の書き方にそっくりです」
つまり、依頼人を装っていたのは、かつて財産分与で揉めた元夫。そして今回の書類も、偽造によって再び土地を奪おうとしていたのだ。
恋も登記も、未練は記入不可ということだ。
元野球部の勘が働く瞬間
なぜ彼は署名をしなかったのか。偽造のリスクを避けるために、あえて「空白」にして正規の筆跡を強要しようとしていたのだ。
「フルスイングで空振りしても、球は見えてくるんだよ」そんな昔の監督の言葉を思い出した。
僕は一通の照会書を作成し、登記識別情報の再確認を求めた。
グラウンドで培った観察眼
野球部時代、ピッチャーの癖を見抜くのが得意だった。筆跡も同じ。手癖は隠しようがない。
しかも犯人の一文字目の“サ”の跳ね方は、かつての書類と一致していた。
僕はその証拠を添えて、警察と法務局に報告書を提出した。
筆跡の“癖”に気づく
それは、司法書士としての勘ではなく、人間としての感覚だったのかもしれない。
「本当はまだ未練があったんでしょうね。だから自分で書けなかった」
サトウさんの言葉は、妙に胸に刺さった。
追いかけた先にいたのは
数日後、依頼人を装っていた元夫は市内の喫茶店で逮捕された。
未練と財産欲が入り混じった不器用な偽装。それはまるで、昔のサザエさんの“穴の開いた靴下”のように、不器用で滑稽だった。
誰にも踏み込めない“署名欄”に、彼は愛ではなく執着を込めていた。
別人のふりをした本当の依頼人
最後に「一度だけ話をさせてください」と言った彼は、元妻の名前を何度も口にした。
だけど、それはもう法的に意味をなさない言葉だった。
感情と登記は、混ぜてはいけない。それが、今回の教訓だった。
「やれやれ、、、こんな展開か」
帰りの車の中で、僕は思わずつぶやいた。助手席のサトウさんは、無言で缶コーヒーを渡してくれた。
まるで、「言葉よりカフェインでしょ」とでも言いたげだった。
そういうところが、やっぱり頼りになるんだよな。
サトウさんの一撃コメント
事務所に戻るなり、彼女は書類をパタパタと整理しながら言った。
「書かない自由と、書けない未練は別問題ですよ」
淡々とした声の奥に、ほんの少しだけ哀しみが混じっていた気がした。
「恋愛も偽装しないと成立しないんですね」
僕は何も言えなかった。書類の世界に“嘘”は許されない。でも、人の気持ちはいつも未記入のままだ。
愛は目に見えないから、署名しようがないのかもしれない。
そしてたぶん、ハートマークも記入不可なのだ。
塩対応にこめられた優しさ
帰り際、彼女がそっと置いた付箋には、「この書類、明日までですよ。忘れないで」と書いてあった。
そういうさりげなさが、ありがたい。
僕のうっかりも、彼女の塩対応で何とか今日も救われた。
結末は静かに
その日の最後に、訂正印と共に、真実の署名が提出された。元妻が全てを知ったうえで、正式に処理したのだ。
法の力が、人の心を整理することもある。そんな一件だった。
今日も一日、地味だけど確かな仕事をした。それだけは胸を張れる。
訂正印と真実の一行
訂正された書類の最下部に、彼女は自分の名前をしっかりと書いていた。まるで「もう終わった話」とでも言うように。
それは、新たな一歩にも見えた。
司法書士の仕事は、そんな人たちの歩みをそっと支える仕事だ。
司法書士の仕事は地味だが、深い
やれやれ、、、今日も疲れた。でも悪くない。
明日はまた、違う未記入の書類と向き合うのだろう。
だがきっと、そこにも“記入できない想い”が隠れている。