目の前の依頼人が語った奇妙な話
その日、事務所のソファに座った依頼人は、どこか落ち着かない様子だった。
「先生、突然、マンションの名義が他人のものになっていたんです」
そう言って差し出したのは、登記簿謄本と見慣れた分譲マンションの写真だった。
分譲マンションの名義が突然他人のものに
書類を確認する限り、確かに所有権移転の登記がなされている。登記原因は売買。
だが、依頼人は「売った覚えなど一切ない」と言い張っていた。
この手の相談、実は稀にある。が、今回はどこか様子がおかしかった。
権利証も印鑑証明も「確かに本人が出した」と言われて
法務局で確認すると、提出された書類に不備はなく、本人確認資料も正当なもの。
つまり、制度上は問題がなかった。
だが、それが逆に奇妙だった。あまりにも“整いすぎていた”のだ。
シンドウの最初の疑念
ふと、登記日を見た。
それは依頼人が入院していた時期と一致していた。
つまり本人の不在を狙って、何者かが動いた可能性が高い。
記録された変更登記のタイミング
登記の日付は、ちょうど正月明けの休み明け初日だった。
こういう日を狙うのはプロだ。登記官もまだ休みボケの頃合いだろう。
サザエさんが「また月曜日ねぇ」とぼやくその日、何かが動いていたのだ。
「委任状」の筆跡が同じに見えた
提出された委任状を見て、ある違和感に気づく。
依頼人の署名とされるものと、代理人欄の筆跡が酷似していた。
これは、もしかして一人の手で書かれたのではないか――。
サトウさんの冷静な一言
「先生、これ偽造じゃなくて、もっと根が深いです」
コーヒー片手にモニターをのぞきながら、サトウさんが言った。
「提出された住民票、これ二週間前に住所変更されてます。しかも……」
彼女の声が低くなる。
管理組合の議事録がすべてを狂わせた
マンションの管理組合がまとめた議事録の中に、名義変更後の新所有者が
すでに住民として扱われていた記録があった。
つまり、実態としては“先に住んでいた”のは新名義人なのだ。
深まる謎の名義変更
だとすれば、登記が後追いになっている。だが不法占拠の様子もない。
「契約書は?」と聞くと、サトウさんが既に取り寄せていた。
完璧なフォーマット、完璧な押印、完璧な公証――まるで怪盗キッドのトリックのようだった。
旧所有者はすでに死亡していた
しかも、元の所有者(依頼人の父親)は半年前に亡くなっていた。
すると、売買契約をしたという時点で存在していないことになる。
死人に口なしとは言え、これはひどい。
なのに押された印鑑は実印だった
登記書類には故人の実印が押されていた。
実印は死後、封印されていたはず。だとすると、誰かが盗み出して使った?
「やれやれ、、、これは簡単には終わらないな」と、思わず声が漏れた。
マンションの一室で起きていたこと
夜、現地を訪ねた。廊下には微かに香るアロマの残り香。
管理人が言った。「鍵は“前の奥さん”に返しましたよ。苗字が変わってただけでしょ?」
聞き捨てならない言葉だった。
管理人の証言と夜中の物音
どうやら夜な夜な出入りしていたのは依頼人の元妻だったらしい。
彼女は離婚後も合鍵を持っていた可能性がある。
その元妻が、名義変更を“仕組んだ”のだとしたら――。
鍵を渡されたのは「別の誰か」
そして現在鍵を持っていたのは、元妻の再婚相手。
しかも、登記簿上の新所有者と一致していた。
なるほど、名義変更は「家族の再構築」に見せかけた“略奪”だった。
再登場する過去の登記情報
過去の登記簿を精査すると、10年前に仮登記がされていたことが分かった。
その仮登記の申請人こそが、新所有者の名だった。
つまり、彼はずっと前からこの物件に目をつけていたのだ。
10年前の仮登記が意味していたもの
当時の仮登記は、金銭消費貸借契約に基づく担保設定の仮登記。
しかし本登記には至らなかった。理由は不明のままだったが……
今となっては、計画の前振りだったとしか思えない。
登記識別情報が行方不明になった理由
依頼人が入院していた間に、保管していた登記識別情報が盗まれていた。
犯人は部屋に侵入する手段を持っていた。
となると、やはり合鍵を持っていた“彼女”しかいない。
事件の鍵は「養子縁組届」だった
市役所で調査すると、なんと依頼人の父と新所有者が「養子縁組」していた記録が出てきた。
死の直前に提出されていたのだ。
つまり、法的には相続人として正当な立場にあった。
所有権が移転した「家族の証明」
売買ではなく、相続による所有権移転が可能な状況だった。
しかし、提出された契約は“売買”であり、それが意図的だった証拠になる。
「贈与税を逃れるため」そんな動機が浮かび上がった。
だが遺産目当ての登記は刑事事件になる
養子縁組が真正かどうかは、筆跡・意思確認・証人の調査が必要だ。
虚偽の届出だった場合、公正証書原本不実記載罪に問われる。
司法書士としては、そこまで突っ込むことはできない――が、警察は動いた。
サトウさんの一手で動いた警察
彼女が提出したレポートが決定打だった。
登記書類に使われた印影と過去のものが微妙にずれていたのだ。
しかも提出された住民票が「改ざん前」のものであることも突き止めた。
犯人は「実の子ではなかった」
養子縁組の書類は偽造されており、印鑑証明も不正に取得されていた。
つまり、彼は全くの他人だった。
司法の網にかかるまで、あと一歩のところだった。
登記簿をめぐる心理戦の幕引き
詐欺と私文書偽造で逮捕。名義は元に戻された。
「やっぱり、不動産って怖いですね」サトウさんがぼそりと呟いた。
その声に、どこか哀しみすら感じた。
最後に残された名義変更の真実
依頼人は晴れて登記簿の“真の”所有者として復活した。
だが、彼はもうあの部屋には戻らないと言った。
「住んでた記憶ごと、消したいですからね」それが彼の答えだった。
マンションの鍵は再び依頼人のもとへ
彼は鍵をポケットにしまうと、小さく頭を下げて帰っていった。
その背中を見送ったあと、私はようやく椅子に沈んだ。
「やれやれ、、、もう少し楽な事件にしてくれ」そう呟いた。
サトウさんの笑わない微笑み
「先生がうっかりじゃなかったら、二日で終わってましたけどね」
塩対応にもほどがある。が、どこか頼もしい。
そう思ったのは、たぶん私だけじゃないだろう。