序章 戸籍の闇に浮かぶ泡
「なんだか変な相談が来てますよ」と、塩対応のサトウさんが書類を机に置いた。開いた戸籍謄本の端に、鉛筆で薄く書かれた跡があった。見慣れたはずの欄に、どこか違和感がある。
申請者の名は確かにある。だが、そのすぐ下、家族構成の記載欄に本来あるはずの名前が――ない。消えたというより、最初から存在しなかったような、見事な空白だった。
午後の相談者は妙に静かだった
相談に訪れたのは、痩せこけた初老の女性だった。遺産分割協議の書類を見せてきたが、戸籍上の兄弟姉妹の一人が、どこにも見当たらないという。
「確かにいたんです。幼いころ、よく一緒に遊びました。でも名前が戸籍に載っていないんです」彼女の声は震えていたが、どこか確信を持っていた。
戸籍謄本に現れた消された跡
書類をじっと眺めるうちに、鉛筆の微細な筆跡が浮かび上がってきた。これは、訂正の前に一度下書きされた文字――あるいは、故意に消された文字なのではないか。
「これは……名前を消しているな」思わず呟いた。いや、消されたというより、封印されたのだ。その人物の存在そのものが。
不自然な名の欠落
司法書士として、戸籍の歪みに敏感になるのは職業病かもしれない。しかし、これは単なる誤記や記載漏れではない、意図的な何かだ。
家系図の構成に「空白」があるとき、それはだいたいが秘密の始まりだ。しかもそれが相続の場面で表に出たなら、なおさら厄介になる。
シンドウの違和感とサトウの指摘
「こういうのって、よくあるんですか?」とサトウさんが聞いてきた。口調は淡々としていたが、目は鋭かった。
「たまにある。でも、こんなにきれいに消されてるのは初めてだな」そう答えながらも、胸騒ぎがした。まるで、戸籍の中で誰かが溺れているような感覚だった。
戸籍の海に沈んだもう一人の子
昔の戸籍を辿っていくと、確かにその人物の名前が一度だけ記されていた記録が見つかった。それは昭和48年のもの。すぐに抹消線が引かれ、訂正印が押されていた。
訂正理由は「記載誤り」――だが、それにしては不自然すぎる。訂正前の戸籍には、生年月日も、性別も、きちんと記されていたのだ。
古い名寄帳と焼けた記録
名寄帳を調査するため、市の税務課へ向かった。職員は親切だったが、古い帳簿の一部が火災で焼失したと知らされた。
だが、奇跡的に残っていた一枚の写しに、その名はあった。昭和50年、父親の名義の土地に、その“失われた人物”の名前で課税されていた記録があったのだ。
昭和の離婚と失踪
当時の戸籍を見ると、父親は一度離婚していた。離婚した妻との間にひとりの子がいたが、その後の戸籍には記載がない。いわゆる“前妻の子”だったのだ。
「名字が違ったから、本籍が別だったんですね……」とサトウさん。そこまで分かったら、もうピースはそろっていた。
筆跡と職印の違和感
訂正をした役場職員の印影が、別件で見た他の書類と微妙に違っていた。押印の位置もずれており、そこに不正の匂いがあった。
職印偽造――考えたくないが、古い時代の町役場ではまれにある。特に家族内のもめごとが絡めば、こうした不正も起こりうる。
消された理由を巡る推理
問題の土地は現在、相続人たちの間で分けられる寸前だった。だが、本来の相続人――戸籍から消された人物がいたとなれば、話は変わる。
「誰かがわざと、この人の存在を消した……」そう結論づけるしかなかった。遺産の分配を少しでも多く手に入れたい人物が、何かをしたのだ。
土地売却と戸籍上の整合性
該当の土地には売買履歴がなかった。つまり、まだ所有者は名義上“死亡した被相続人”のまま。だからこそ、相続登記の正確さが問われる。
このまま名を伏せたまま登記すれば、それは虚偽申請になりかねない。司法書士として、その道を選ぶわけにはいかない。
偽造された除籍証明の真贋
市役所に問い合わせると、問題の除籍証明は正式なものではなかった。発行履歴もなく、誰かが偽造したとしか思えなかった。
「やれやれ、、、サザエさんの波平が戸籍を整理したってレベルだな」思わずそんな冗談もこぼれる。だが、現実は深刻だった。
法務局での手がかり
手続き上、どうしても必要な情報を確認するため、法務局の書庫を漁った。そこには旧来の不動産記録が保管されている。
埃を被ったファイルの中から、見覚えのある筆跡の申請書が出てきた。そこに記された名前は、確かに消された子どものものだった。
書庫の隅にあった未整理ファイル
それは昭和末期の申請書だった。相続放棄の意志を記した本人直筆のもの。だが提出されず、保管だけされていた。誰かが、意図的に手続を止めていたのだ。
この一枚が、全ての鍵だった。提出されなかった申請書が、名前の封印の証拠となるとは、皮肉な話だ。
名前を消した人物の正体
話を整理すると、戸籍を消すよう仕向けたのは、現在の相続人のひとりだった。昔から家族と折り合いの悪かったその人物は、父の死後、前妻の子を“無かったこと”にしようとした。
市役所にコネがあり、職員に頼んで改ざんさせたようだ。だが、完璧ではなかった。過去の名寄帳と筆跡が、それを暴いてしまった。
戸籍事務員と家族の因縁
その職員はすでに退職しており、当時の事情を語るには年老いていた。それでも、申し訳なさそうに「あの時は頼まれてつい…」と漏らした。
罪を問うかどうかはさておき、司法書士としては登記を正しく終えることが最優先だ。名前を、書き戻さねばならない。
遺産を守るための犯罪
消された名前の人物には、もう家族も財産もなかった。ただ、名前だけが戻ってきた。登記簿に一行加えるだけで、亡き人の存在が再びこの世に記される。
誰も得をしないかもしれない。だが、正しさとは時にそういうものだ。
サトウの冷静な一言
「正義って案外地味ですね」と、サトウさんは相変わらずの塩対応で言った。だが、彼女の目はどこか誇らしげだった。
「ま、司法書士ですからね」肩をすくめた。事件は解決しても、誰から感謝されるわけでもない。そんなもんだ。
名を記すことで救われる人もいる
記載欄に一人分の名前が加わった。戸籍の海に沈んだ名は、再び浮かび上がった。記憶から消えていた誰かの人生が、紙の上で息を吹き返した。
やれやれ、、、ようやく一件落着だ。
真実とその後
その後、名を取り戻した人物の相続分は、法的に整理され、わずかばかりの金額が供託された。受け取る者は現れなかった。
だが、それでいいのだ。正しさが記録されたこと、それが何よりの成果だった。
戸籍訂正と登記手続きの終わり
修正された戸籍と登記簿を見届け、僕はようやくデスクに腰を下ろした。冷めた缶コーヒーをひと口飲む。まだ苦い。
「次の相談者、来てますよ」サトウさんがドアの向こうから声をかける。またか、と愚痴をこぼしつつ、椅子から立ち上がった。
シンドウがひとり夜に見上げた月
夜道を歩きながら、ふと空を見上げた。雲の切れ間に浮かぶ月が、どこか寂しげだった。僕もまた、戸籍の片隅に名を記すだけの存在なのかもしれない。
でも、それでいい。誰かの名を救えたのなら。