朝の訪問者と抹茶の香り
その朝、事務所にはかすかに抹茶の香りが漂っていた。来客の約束などなかったはずだが、扉の前には見慣れぬ紳士が立っていた。スーツはよれ気味で、手には古びた封筒。
「すみません、急ぎで相談したいことがありまして」と彼は頭を下げた。時計はまだ午前九時を指していた。
サトウさんは無言で俺を見やり、無言で湯を沸かし始めた。これが静かな怒りの始まりとは、この時はまだ気づいていなかった。
不意の来客とサトウさんの機嫌
依頼人の名前は加賀谷文一。差し出した封筒の中には、見慣れた様式の遺産分割協議書。だが何かが、いやな引っ掛かりを残す文面だった。
その横で、サトウさんはお茶を淹れながらも一切口をきかず、氷のような沈黙を漂わせていた。抹茶茶碗の音だけが響いていた。
「いやに機嫌悪いな」と小声でつぶやくと、睨まれた。やれやれ、、、朝から地雷を踏んだか。
置かれたままの茶筅と書類
依頼人が帰ったあと、机の上に置かれた茶筅と、読み終えた協議書が妙に重く感じた。サトウさんは無言で片付けを始めたが、その目はどこか険しかった。
「この協議書、妙ですね。筆跡も日付も一部変です」と指摘すると、「そんなの、さっきから気づいてました」とピシャリ。今日も塩対応炸裂。
だが、その冷たさの奥に何かがあった。たとえば、焼きもちとか。
奇妙な依頼と登記の矛盾
書類に記された物件の登記情報と、法務局で確認した現況が一致しなかった。住所も地番も合っているのに、相続人の数が違う。
俺のデータベースで確認すると、そこには一人、記載されていない名前があった。故人の異母兄弟らしい。
「これは意図的に外されてる可能性があるな」俺の口調に、サトウさんが一瞬だけ眉を上げた。
遺産分割協議書の違和感
協議書は一見整っていたが、署名の筆圧とリズムが不自然に揃いすぎていた。まるで誰かがなぞったような感覚。
「これ、同じ人間が複数人の名前を書いたように見えます」とサトウさんが冷静に言う。指で示したのは、一番右上の署名欄。
司法書士にとって、筆跡の違和感は感覚に近い。まさに今、それが働いた瞬間だった。
名字が二つある理由
そして決定的だったのが、一つの名字にだけ旧字体が使われていた点。よく見ると、一人だけ「齋藤」で他は「斉藤」だった。
「あーこれ、やったな。雑だ」と俺はつぶやいた。事務所の片隅でサトウさんが「最初から怪しかったですけど」と鼻で笑った。
サザエさんのカツオよろしく、俺はまた“やれやれ顔”を浮かべていた。
抹茶と怒気とやきもち
事件の進展よりも、サトウさんの態度が気になって仕方なかった。明らかに俺に怒っている。いや、怒る理由がないはずなのに。
「俺、なんかした?」と聞いても無視。茶筅の動きだけが妙に力強い。
そうか。あの依頼人、俺のことを「先生」ってやたら持ち上げてたな。しかもやけにサトウさんを見下す口調だった。
サトウさんの不機嫌の真相
「別に」と答えたその一言の中に、無数の言いたいことが詰まっていた。俺が気づくには少し時間がかかった。
「……もしかして、焼きもち?」と口に出すと、茶碗の音が止まった。
「ないです」と即答された。だがその後ろ姿は、わずかに耳が赤かった。
司法書士のうっかりと名推理
だが事件は待ってくれない。登記の矛盾をもとに、俺は加賀谷の戸籍と照会し、除外された人物の存在を裏付けた。
同時に筆跡鑑定を不要にする“字体の癖”に着目した俺は、証拠としてそれを法務局に提出することにした。
「やれやれ、、、うっかりな俺でもやる時はやるんだよ」自分に言い聞かせるように、俺はファイルを閉じた。
契約書に隠された仕掛け
加賀谷が偽造した協議書には、ある共通点があった。すべての押印が、同一の朱肉跡を持っていたのだ。
さらに、封筒の中には使い古された印鑑が一つだけ入っており、それがなぜか他の家族全員の名前と一致する。
「使いまわしたんだな。こりゃ裁判で通らないわ」と俺は小声でつぶやいた。
印鑑と封筒の違和感
そして何より怪しかったのは、封筒の中に混入していた“茶殻”。おそらく、事務所での相談時に落ちたのだろう。
そこから逆算すると、加賀谷は以前にここへ来て、誰かの印鑑を無断で取った可能性があった。
つまり、ここで何かやらかしていたということになる。
筆跡鑑定は不要だった
筆跡よりも、朱肉の模様と字体の癖、それに加賀谷の証言のズレが決定打となった。
「なぞりすぎて、逆に目立ったな」と俺が言うと、サトウさんが「素人のやることですから」とポツリ。
氷のような声だったが、すこしだけ柔らかくなっていた気がした。
動機と茶碗のヒビ
加賀谷の動機は明確だった。除外された兄弟は昔から仲が悪く、相続で揉めるのが目に見えていた。
ならば最初から存在しなかったことにしてしまえば、トラブルも起きず財産も独り占め。実に短絡的だ。
だが茶碗のヒビのように、嘘は必ずどこかでひび割れる。
恋の嫉妬と相続の交差点
そしてもう一つの動機。恋愛感情が交錯したのは、俺たちのほうだった。
嫉妬は、時に事件を見抜く鋭い感覚を生む。まるで恋の探偵能力。
「次からは無断で女の子と話さないように」とサトウさんが言ったとき、ようやく俺は気づいた。
犯人が残した無意識の証拠
加賀谷の無意識が残した証拠は、あらゆる場所に散っていた。封筒、字体、朱肉、茶殻、そして態度。
「これだけの手がかりがあるのに、気づかないほうがおかしいですよ」とサトウさん。
推理は恋よりも素直だ。俺はようやくそれを学んだ。
サトウさんの小さな嘘
事件が片付き、報告書を書いているとサトウさんが抹茶を持ってきた。
「やきもち、じゃないですからね。あれはただの苛立ちです」
と言いながら、ちゃっかり俺の好物の羊羹を添えていた。どう見てもやきもちだった。
実はすべてお見通し
事件も俺の感情も、すべてサトウさんの掌の上だった気がする。悔しいけど、妙に心地よい。
「やれやれ、、、また一本取られたか」
俺は小さくため息をついたが、どこかうれしさが混じっていた。
焼きもちも推理の一部
「嫉妬も推理も、勘が大事なんですよ」とサトウさん。
「じゃあ、その勘で次は何を見抜くつもり?」と聞くと、「うっかりミスとか」と塩対応。
やっぱり、今日も日常は事件のように騒がしかった。