朝の一通の電話
午前8時半、事務所の古びた電話が鳴った。受話器を取ると、かすれた女性の声が震えていた。「父の遺言について、少しおかしなことがあって、、、」。
昨夜の飲みすぎが尾を引いていたが、その一言で眠気が吹き飛んだ。事件の匂いがした。しかも、これはただの相続ではなさそうだった。
まるでサザエさんの波平が急に銀行強盗を始めたかのような違和感。聞くだけで背筋がゾッとする話だった。
相談者は涙声だった
「父が亡くなる直前に遺言書を書いたらしいのですが、それがどうしても信じられなくて、、、」。
女性は何度も嗚咽をこらえながら話した。どうやら遺言には、彼女の知らない人物が唯一の相続人として書かれていたという。
やれやれ、、、朝から胃が痛くなりそうだ。
亡き父の遺言に不審な影
彼女が持ってきた遺言書は公正証書ではなかった。自筆証書遺言。それ自体は問題ない。
だが、日付と署名の筆跡が不自然に整いすぎていた。まるで、どこかの探偵漫画に出てくる完璧すぎる偽造だ。
名前の曲線、文字の太さ、そして不自然なスペース。違和感はすぐに浮かび上がってきた。
誰も知らなかった新しい相続人
相続人として名前が書かれていたのは「高原義文」という男。依頼者もその家族も誰一人として聞いたことのない人物だ。
戸籍を調べても、父とのつながりは確認できない。完全な部外者。だが、その男が登記の名義変更手続を済ませている。
つまり、登記はすでに完了しているのだ。司法書士の私にとって、それは非常に危険な兆候だった。
遺言書のサインに違和感
朱肉の押し方もどこか変だった。印影が薄く、微妙にズレている。よく見ると、印鑑登録証明書と一致しない箇所もあった。
もしやと思い、押印と筆跡を分析できる知人の司法書士に相談してみた。彼の返答は早かった。「これ、明らかに別人が書いてるよ」。
サトウさんも背後からボソッと呟いた。「これ、典型的な偽造ですね」
筆跡が語る真実とは
筆跡鑑定の結果を待つまでもなく、明らかな偽造だった。だが、誰が?そしてどうやって?
犯人は遺言書が有効になるタイミングと登記申請のスピードを熟知していた。それは素人ではない。
私は気づいた。これは司法書士、あるいはそれに近しい職業の者の犯行だ。
依頼人の焦りと不信
「どうしてそんな人間が父の土地を奪えるんですか?」。彼女の目には怒りと絶望が混じっていた。
私も答えに窮した。登記という制度は、ある意味「先に出した者勝ち」の側面がある。
だが、その制度を逆手に取る者がいるという事実が、今まさに目の前にある。
「これ、本当に父が書いたんですか?」
依頼人の問いに、私は頷かなかった。確証がなければ断定できない。それが私の仕事でもある。
だが、心の中では「違う」と確信していた。この筆跡は、父親の震える手で書いたものではない。
筆跡鑑定だけでなく、紙の種類やインクも調べてみる必要があった。
サトウさんの鋭い一言
「この登記、時系列が変ですよ」。サトウさんがパソコンを覗き込みながら、冷静に言った。
「委任状の日付が、遺言書よりも前になってます」。私は一瞬時が止まった気がした。
やれやれ、、、これは簡単な話ではなさそうだ。
「この登記、時系列が変ですよ」
彼女が指摘した通り、登記に使われた委任状は、遺言書の日付より一週間も前の日付だった。
本来、遺言書がないと委任できないはずの手続きが、先に動いていたということになる。
つまり、犯人はあらかじめ遺言の偽造を前提に登記を進めていたのだ。
封筒の中の証拠品
依頼人が後日持ってきた茶封筒。その中にあったのは、父の死後に届いた古びた封筒だった。
中には「高原義文」から送られた契約書の控えが入っていた。そしてそこには、依頼人の父の偽造された署名が並んでいた。
これが決定的証拠だった。ここから一気に流れが変わった。
古びた印鑑証明書が指し示すもの
偽造された印鑑証明書の発行日は、実は父が入院していて身動きが取れなかった時期だった。
病院の記録とも一致しない。つまり、他人が勝手に申請し、他人が使っていたということ。
警察にも通報し、動き出してもらうには十分すぎる証拠だった。
元野球部の勘が働く
私はふと思い出した。地元の印刷屋に以前、筆跡模写の話をした男がいた。妙に記憶に残っていた。
野球部時代の勘というより、ただのうっかり記憶かもしれないが、電話してみることにした。
「ああ、その男ね、来たよ。去年、ハンコの偽造の相談されたよ」
「あのハンコ、見覚えあるぞ、、、」
まさか、と思ったが確信に変わった。あの時、妙に印影にこだわっていた理由が今なら分かる。
彼はすでにこの犯行を計画していたのだ。やれやれ、、、こんなことで名前を残すなんて。
司法書士の端くれとして、黙って見過ごすわけにはいかなかった。
事件の終わり、そして後始末
警察の捜査により、高原義文は逮捕された。複数の不動産を同様の手口で奪っていた。
登記は抹消され、依頼人のもとへ土地は戻った。だが、心の傷は簡単に癒えるものではない。
「サインひとつで人生が変わる」。重く、深く、私の胸にも突き刺さる言葉だった。
「結局サインひとつで人生変わるんだよな」
法の正しさと人の悪意。その間で揺れる現場に、私は今日も立ち続ける。
どんなに小さな紙切れでも、人の運命を左右することがある。
そしてその判断を、私たち司法書士が担っているのだ。
夕暮れの事務所で
事務所の窓から、夕日が差し込んでいた。書類の山を前に、ため息をつく。
すると、コーヒーをそっと机に置く気配。「お疲れ様です」とサトウさん。
「……ありがとうな」。照れくさくて、それ以上は言えなかった。