紙の下に眠る罪

紙の下に眠る罪

紙の下に眠る罪

不動産売買の依頼に潜む違和感

八月の蒸し暑い午後だった。クーラーの効かない相談室で、年配の男性が差し出した登記関係書類を見たとき、妙な違和感が首筋を撫でた。「父の名義の土地を売却したい」という依頼内容はありふれている。だが、書類の端にほんのわずかに黄ばんだ紙片が綴じてあったのだ。

その紙は明らかに現在の形式ではなく、タイプライターで打たれたような書式だった。「昭和」の文字が強く目に残った。私は書類を手に取り、念のためと自分に言い聞かせてコピーを取り始めた。

セピア色の登記簿との出会い

数日後、法務局で調査をしていた私は、思いもよらぬものと出会った。それがセピア色の登記簿謄本だった。今どき紙の謄本など滅多に目にすることはない。しかもそれは手書きの帳簿で、インクが滲んだ跡すら歴史を語っているようだった。

その登記簿には、件の土地についての旧所有者として、依頼人の父の名が確かに記載されていた。だが、所有権の移転日付に不自然な訂正痕があった。線で消され、赤いインクで別の年月日が書かれていたのだ。

間違った日付が語る過去の影

この訂正日付は、通常の手続きではありえない時系列だった。つまり、名義移転が「まだ生きていたはずの前所有者の死亡日よりも後」に記録されていたのだ。これは、いわゆる死亡後の無権限登記、もしくは仮装登記の可能性がある。

私は背筋にじんわりと汗を感じながら、書類をそっと閉じた。依頼人がそれを知っていたのか、あるいは知らずに手続きを依頼してきたのか――そこにすでに「罪」の香りが漂っていた。

サトウさんの鋭い指摘

事務所に戻り、謄本とコピーを机に広げていたときのこと。サトウさんが、無言でコーヒーを置いたついでに、ふと謄本を見て言った。「この訂正印、なんか筆跡おかしくないですか?」

私は慌てて目を凝らした。確かに、訂正印の「田」の字がつぶれている。まるで誰かが偽って押印したような、いや、実際そうだったのかもしれない。私はその場で小さくうなった。「やれやれ、、、また厄介なのを引いたかもな」。

名義人の失踪と謎の空き家

町役場で住民票を調査すると、依頼人の父は数年前に「職権消除」されていた。つまり、所在不明のまま、役所側で登録を削除されていたのだ。登記上は存命のままになっていたが、実際には消息不明。

そしてその土地――古い住宅が建っているはずのその場所は、近所の不動産業者の話によると、数年誰も近づいていない廃屋となっていたという。登記簿が追いついていないのか、それとも意図的に遅らされているのか。

昭和四十年代の仮登記

登記簿のさらに古い部分には、仮登記が記録されていた。昭和四十二年、仮登記名義人として別の名前が載っている。その名は依頼人の父ではなかった。だが、仮登記は本登記に移行されることなく消滅していた。

一体何が起こったのか。仮登記名義人は誰だったのか。調べていくうちに、ある新聞記事にたどりついた。かつてその土地に住んでいた人物が、昭和四十年代に失踪していたのだ。

書類に残された旧字体のサイン

古い謄本の中には、何故か「證」という旧字体が署名欄に使われていた。現代の登記には使われない字形だが、それは仮登記名義人の署名として残っていたのだ。その字体、そして書き方は、サトウさんがひょいと見つけた町の歴史資料館の筆跡と酷似していた。

私はそこから、その名義人が町の教育者であり、失踪後も地元で語り草になっていた人物であることを突き止めた。

手書きの訂正印が語るもう一人の存在

訂正印を詳しく検証するため、私は知人の筆跡鑑定士に写真を送った。結果は「同一人物ではない可能性が極めて高い」とのこと。つまり、誰かがその訂正を意図的に、そして不正に行ったということだ。

そのタイミングを見てみると、仮登記の名義人失踪からちょうど三年後。時効成立の直前であった。

かつての登記官との接触

私は、当時その仮登記を処理した元登記官を訪ねた。彼は既に退職しており、山間部で静かに暮らしていたが、私の問いに「ああ、あの件か」とつぶやいた。

「不自然な訂正があったのは覚えてる。だけど、当時は押印と印鑑証明さえあれば、突っ込んで調査する仕組みなんてなかったんだよ」と彼は言った。そして少し間をおいてこう付け加えた。「裏で土地を動かすやつは、いつの時代もいるんだ」と。

古い名義と今の所有者の不一致

私は依頼人にもう一度面談を申し出た。すると彼は意外にも、「やっぱりそうでしたか」と苦笑した。彼の父はすでに亡くなっており、その事実を隠していたのだ。理由は、父が生前に土地を内密に他人に譲渡していたが、登記だけが追いつかなかったという。

その「他人」が仮登記名義人だった可能性もある。だが、証拠はすでに失われていた。紙だけがその存在をうっすらと語るにとどまっていた。

こっそり動く地元不動産業者の影

調査の末、ある地元の不動産業者がその土地に目をつけ、登記の曖昧さを利用して安く買い叩こうとしていたことがわかった。彼らは依頼人に対し、相場の三分の一程度の価格での買収を持ちかけていた。

表には出てこないが、こうした法の隙間を突く動きは地方では珍しくない。私はそれを証明するだけの記録を依頼人に渡した。

法務局の倉庫で見つかった一枚の写し

後日、法務局の職員から連絡があった。倉庫の古い書類の中に、「昭和四十二年の仮登記取消申請書控え」の写しが残っていたという。そこには、申請人として依頼人の父の名前、そして押印がなされていた。

だが、その印影は、訂正印とは明らかに異なっていた。つまり、何者かがこの申請を装っていたのだ。私はそれをもって、最終的な報告書を作成した。

サトウさんの冷たいが的確な推理

報告書をプリンターから取り出していたとき、サトウさんがぼそりと呟いた。「あの依頼人、全部わかってたんでしょうね。知らないふりって、逆にズルいですよね」

私は返す言葉もなく、コーヒーに手を伸ばした。「やれやれ、、、本当にそうだ」と私はただ頷くしかなかった。

登記訂正に込められた真実と和解

最終的に依頼人は、正式な手続きを踏んで土地の所有権を確定させる決断を下した。価格は上がったが、それでも彼は「スッキリした気分です」と言っていた。

紙の下に隠されていた罪。その全てが明るみに出ることはなかったが、少なくとも、もう誰かがその上で嘘をつくことはなくなった。それでいいのだと、私は思った。

しがない司法書士
shindo

地方の中規模都市で、こぢんまりと司法書士事務所を営んでいます。
日々、相続登記や不動産登記、会社設立手続きなど、
誰かの人生の節目にそっと関わる仕事をしています。

世間的には「先生」と呼ばれたりしますが、現実は書類と電話とプレッシャーに追われ、あっという間に終わる日々の連続。





私が独立の時からお世話になっている会社さんです↓