午前九時の来訪者
朝のコーヒーを口に運ぼうとしたその時、事務所のドアが勢いよく開いた。涼やかな風とともに現れたのは、年の頃なら三十代後半、よく手入れされた身なりの女性だった。
「司法書士の先生ですか?」と低い声で彼女が言った。僕は一度だけ頷き、あとは無言で応接スペースを指さした。なんとなく、ただならぬ気配がした。
彼女が取り出したのは、一冊の分厚いファイル。表紙には擦り切れたラベルで「根抵当権設定契約書」と記されていた。
古びた契約書を抱えた女
「この登記、もう抹消されてるはずなのに、まだ残ってるんです」と彼女は言った。記録を遡ると、確かに平成二十四年に根抵当権は設定され、その後の変動もなし。だが、不思議なのは、この土地に融資をした銀行が六年前に統合消滅していたことだった。
「じゃあ、誰がこの恋……じゃなかった、根抵当を握っているのか、ですね」と僕が冗談めかして言うと、彼女は一瞬だけ目を細めて笑った。
彼女の目元には、懐かしさと未練のような感情が混ざっていた。それが気になって、僕は詳しく聞くことにした。
初恋と根抵当の記憶
彼女は静かに語った。「この土地、昔、彼と一緒に選んだんです。彼は…銀行員で、この契約も彼が仕組んだものでした」
契約書の署名欄を見ると、確かに男性の名があった。僕はその名前に見覚えがあったが、それがどこでだったかはすぐには思い出せなかった。
だが、すぐにサトウさんが小声で呟いた。「これ、別人の筆跡じゃないですか?」――それが最初の糸口だった。
法務局の沈黙
僕は根抵当の権利者を追うべく、法務局へ連絡した。が、予想通り「個別事案には答えられません」とマニュアル通りの返事しか返ってこなかった。
それでも、登記官の口ぶりには微かな戸惑いがあった。どうやら、何かを隠している様子だった。
その夜、僕は久々に紙と鉛筆を持ち出し、関係者図を書き始めた。やれやれ、、、野球部のスコアボードより複雑じゃないか。
登記簿に残された微かな手がかり
土地の履歴を追っていくと、ある住所が繰り返し登場していることに気づいた。元の所有者、抵当権者、さらには一時的に移転された信託先の名義まで。
その住所をGoogleマップで確認すると、なんとそれは既に取り壊された旧銀行支店跡地だった。まるで誰かが証拠を消すようにしていた。
僕は、誰かが意図的にこの根抵当を残し、抹消を妨げているのではないかという仮説を立てた。
不動産の名義と彼の名前
登記情報のなかに、例の男性の名前が別の法人名義に紛れて存在していた。その法人――それは幽霊会社だった。
これが本当に彼の意思か? それとも誰かが彼の名を使って操作しているのか?
僕は再び契約書を見つめた。そこには、二人の思い出ではなく、明確な虚偽が横たわっていた。
サトウさんの冷静な推理
「この署名、スキャナで加工されてますね」とサトウさんが言った。その目は鋭く、口調は冷静だった。
「一部だけインクの濃度が違います。スキャナで複製して、上から偽の印影を載せた痕跡です」
僕は心の中で拍手を送った。まるでキャッツアイの瞳のように、彼女の観察眼は本物だ。
根抵当権設定契約書の矛盾
契約書の日付と登記の申請日が一致していない。しかも、証人欄に名前があるのに、実際の証人は別人らしい。
これは内部で何か不正が行われていた可能性が高い。もはや単なる恋の記録ではなく、詐欺の片棒に近い。
「彼、そんなことするような人じゃなかったのに……」彼女が呟いた。
亡き恋人の偽装署名
調査の末、その男性は五年前に亡くなっていたことが分かった。つまり、今ある契約書の署名は、死後に誰かが作ったもの。
彼女の顔が青ざめた。「じゃあ、私が持ってきた書類は……」
「うん、誰かが君を利用したんだ。君と彼の過去を知ってる誰かが」僕はゆっくりと言った。
シンドウのうっかり反撃
「……あれ? この控えの謄本、なんで令和五年の日付になってる?」僕がうっかり指摘した。
本来ありえない日付にサトウさんが即座に反応した。「これ、偽造の証拠になります」
まぐれの発見だったが、重要な切り札となった。やれやれ、、、僕にもたまには見せ場がある。
登記識別情報の取り違え
犯人は、同じ番地に存在する複数筆の土地を利用して、識別情報をすり替えていた。
その手口はまるで名探偵コナンの劇場版に出てくるような精密さだったが、最後の最後に雑なミスをしていた。
「これで追い詰められるわね」とサトウさんが言った。相変わらず冷たいが頼れる存在だ。
やれやれ、、、と呟いた午後
午後三時、僕は関係各所へ抹消登記と訴訟予告を通知した。あとは警察に任せる。
「恋も登記も、消すには証拠が要るんですよ」と僕は小さく呟いた。
サトウさんは、「例えがダサいです」とだけ言った。……やれやれ、、、
最後の抹消請求
女性は、事務所のドアを出る前に深く頭を下げた。「彼と最後に向き合えた気がします」
抹消されたのは契約であり、恋ではない。むしろ、ようやく彼女は過去を閉じることができたのかもしれない。
僕は無言で頷いた。言葉よりも、重みのある時間だった。
抹消できないのは登記か想いか
不動産登記は正確さが命だ。でも、人の心は数字で割り切れない。
根抵当のように、浮かんでは消える感情がそこにはあった。何を担保に恋をしたのか、彼女にもわからなかっただろう。
それでも、ひとつの真実だけが確かに抹消された。それは偽りの記録。
真実の裏書きは誰の手に
事務所の窓の外に、夕日が落ちていく。サトウさんは、静かに書類をシュレッダーにかけた。
「次は登記懈怠の件、急ぎましょう」――日常が戻る。だが、今日の記憶はファイルには残さない。
なぜなら、これは恋の記録ではなく、司法書士が静かに仕留めたひとつの真実だからだ。