名義変更の依頼
離婚届とともに現れた依頼人
依頼人は中年の女性だった。派手でも地味でもない、だがどこか妙に印象に残る目つきをしていた。 「これ、夫との離婚届です。それと、この家の名義も変更したいんです」 淡々と語るその口調に、割り切った決意のようなものがにじんでいた。
妙に詳細を避ける説明
「名義は元の旧姓に戻しますか?」と尋ねると、彼女は少し間を置いて「はい…でも、それだけではなくて…」と曖昧に濁した。 必要な書類を確認しながら、なんとなく引っかかる感覚が残る。 こういうとき、経験則が警報を鳴らす。問題はまだ、表に出ていない。
怪しい過去の登記履歴
不自然な所有権の移転時期
事務所に戻り、登記簿を見直すと妙な記録に気づいた。 離婚前に一度、名義が第三者に移り、数ヶ月後に再び夫名義に戻っていた。 これは明らかに通常の贈与や売買の流れではない。
書類に残された微かな手がかり
移転の登記原因には「贈与」とあったが、添付されていた契約書はあまりに簡素で、日付も不自然にずれていた。 書面の余白には、ボールペンの試し書きのような走り書きがあり、そこに「コバヤシ」の文字が読めた。 コバヤシ……依頼人の名字でも、元夫の名字でもない。
サトウさんの冷静な分析
旧姓に戻るタイミングの違和感
「この人、旧姓に戻すって言ってますけど…旧姓が使われていた時期、登記上でも一瞬登場してますね」 サトウさんは端末を素早く操作し、過去の登記資料をモニターに映し出した。 「でもそのタイミング、離婚の半年も前ですよ。おかしいと思いません?」
前の所有者の『もう一つの顔』
「ねえ所長、さっきの“コバヤシ”って名前。私の記憶が正しければ、こっちの市営住宅で生活保護を受けてた人と同じ名前です」 その言葉に、僕は書類を持ったまま立ち上がった。 あの走り書きは、ただの偶然じゃなかったのかもしれない。
夜中にかかってきた無言電話
なぜ今になって名義を変えるのか
その夜、事務所の電話が鳴った。番号非通知、そして無言。 数秒の沈黙ののち、カチッという受話器の置かれる音だけが残った。 背中がすっと冷える。あの依頼は、単なる離婚登記では済まされない。
戸籍の変遷に埋もれた真実
市役所の戸籍係に協力してもらい、改製原戸籍を取り寄せてみる。 そこには、依頼人がかつて一度「小林姓」を名乗っていた記録があった。 つまり、贈与された相手「コバヤシ」は、他人ではなかった。
やれやれ、、、また厄介なことに
昔の記憶と重なるひとつの住所
その住所を見た瞬間、僕の頭に高校時代の記憶が蘇った。 野球部の合宿で泊まった古びた民宿、そのオーナーがコバヤシだった。 まさか、まさかこんな形で繋がるとはな…。
かすれた筆跡が語るもの
試し書きのように見えた「コバヤシ」の筆跡は、実は意思表示だったのかもしれない。 あえて記録に残らぬよう、かすれさせた証拠。 しかしその微かな線が、すべてを繋ぐ鍵になった。
名義の中にいた「もう一人」
二重名義と隠された離婚協議書
浮かび上がったのは、依頼人が自らの過去を名義を通じて清算しようとした構図だった。 一度手放した財産を、自分の別人格として回収する。 しかし法は、心までは登記できない。
サトウさんの推理が導く結末
「つまり、元夫との離婚はカムフラージュ。実際にはこの家を手放さないよう、過去の自分を使って“名義ロンダリング”してたんです」 さすがはサトウさん、核心に迫る指摘。 「…で、所長はこれ、どう処理するんですか?」
司法書士としての一手
登記簿上の整理と心の整理
僕はしばし沈黙したあと、こう答えた。 「法的にはアウトだけど、もう一度確認して、改めて正当な名義変更を提案しよう」 依頼人の過去に口出しはできない。ただ、登記だけはまっとうにしておきたい。
それぞれの名義が向かう場所
依頼人は静かに頷き、「ありがとうございました」と言って帰っていった。 その背中には、重たい過去と、少しだけ軽くなった未来が揺れていた。 やれやれ、、、これだから人の名義は、数字より厄介だ。