はじまりは一通の戸籍謄本から
「これ、見ていただけますか?」 目の前に差し出されたのは、数年前の戸籍謄本だった。役所から取り寄せたばかりらしく、紙の端はまだピンと張っている。依頼者は、どこか所在なげな目つきで、黙ったままだ。
その一枚に記載されている家族の記録を眺めながら、俺は妙な既視感に襲われていた。何かが抜け落ちている。いや、何かが意図的に抜かれている……。
午前九時の訪問者
その女は、開口一番に名乗ることもなく、謄本を机に置いた。「婚姻届、提出されてないと言われたんです」 声に怒りや悲しみはなく、むしろ静かな観察者のような響きがあった。だが、その目の奥は、諦めと疑念で濁っていた。
「提出されてない……つまり、婚姻が成立してないってことですか?」と俺が問うと、彼女は小さく頷いた。謄本上には、確かに“婚姻”の記載がない。だが彼女は言う。「一緒に住んでいたし、式も挙げたんです」
サトウさんの冷たい第一声
「シンドウさん、それって結婚詐欺の典型ですよ」 奥の机でパソコンを打っていたサトウさんが、冷たく言い放った。俺はコーヒーをこぼしそうになったが、慌てて持ちこたえる。
「そんな簡単に決めつけるなってばよ。……じゃなくて、そういうのは証拠がないと」 「証拠があるから来てるんでしょ。謄本以外に」 塩対応はいつものことだが、今回は特に容赦がない。
戸籍に潜む矛盾
謄本を見返してみると、確かに世帯の構成が妙だ。 彼女の名前は旧姓のまま、親族関係も「単身」とある。だが、同居していたというアパートの住所は、元夫とされる男の住所と一致している。
「住民票は別でしたか?」と尋ねると、彼女は小さくうなずいた。「住所を合わせようとしたら、彼が面倒だって。で、戸籍を確認したら、何も記録がなかった」
婚姻の事実と届出の不在
ここからが俺の出番だった。婚姻には、届け出が必要だ。 婚姻届が提出されて受理されない限り、法律上は赤の他人。写真や結婚式、指輪や生活の事実などは、記憶には残っても、法律には残らない。
「届出を出した証拠って、なにかありますか?」と聞くと、彼女は黙って、古いスマホを出した。画面には、役所の窓口で彼女が何かを渡している写真があった。
戸籍の職権訂正とその先にあるもの
職権で訂正が入るケースというのも稀にはある。ただし、それは明らかな記載ミスや事故に限られる。今回のように、「出したつもりで実は出てなかった」という場合は厄介だ。
「やれやれ、、、面倒なケースだな」と俺は呟いた。戸籍のどこにも“婚姻”の文字がない以上、婚姻が成立していないことになる。そしてそれは、慰謝料や共有財産にも影響してくる。
依頼者の涙と沈黙
彼女は、急にポケットから封筒を取り出した。「これ、彼から受け取った書類です」 中には婚姻届の控えとされるコピーが入っていた。だがそこには、役所の受理印がない。
「出すって言って、出さなかったんです。きっと……最初から」 その言葉と共に、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。俺は、言葉を失った。
消えた婚姻届の謎
誰が婚姻届を握り潰したのか。彼なのか、役所の不備か。 だが彼女の話を整理すると、提出はすべて彼がすると言って持ち帰ったとのこと。彼女自身は一度も役所に足を運んでいない。
「最初から、出す気なんてなかったんでしょうね。自分に都合のいい関係を維持するために」 それが真実なら、これは法では裁けない悪意だ。
サトウさんの違和感
「婚姻届、二人の署名が必要ですよね?」とサトウさんが割って入った。 「はい、でも私がその場で書いて……そのあと、彼が持ち帰りました」
「その時、第三者はいましたか?証人欄の記名は?」 彼女は首を振った。「彼の友人が書いてくれたって。私は直接会ってません」
役所と法務局を巡る足取り
俺は法務局に連絡し、当時の婚姻届が提出された痕跡がないか調査を依頼した。 当然ながら、未提出の書類が保管されることはない。あとは、元夫に直接聞くしかない。
「やるか……調査開始だ」 その時の俺は、なぜかコナンくんの気分だった。いや、あそこまで頭は回らないけど。
旧姓で届いた通知
彼女のもとに届いた一通の郵便が決定打となった。 内容証明で、元夫が自分名義の財産を処分しようとしていたのだ。しかも、彼女が妻として署名していた時期に。
「妻でもなんでもない、ただの他人に署名を求めたってことですか?」と俺が言うと、サトウさんは目を細めて「最低」とつぶやいた。
婚姻日と提出日の不一致
さらに調査を進めると、結婚式の日と、婚姻届の提出予定日は一致していなかった。 そもそも彼のスケジュール帳には、婚姻届を出す予定すら書かれていなかった。
「つまりこれは、最初から彼女を法的に“妻”にしないための計画だった」 俺はため息をついた。やれやれ、、、やっぱり最低だ。
やれやれ、、、俺の出番か
俺は手元の書類をまとめ、証拠一式を揃えて、彼女の代理人として通知文を作成した。 届出の不履行、信義則違反、財産的不利益、精神的損害。やれることは全部やる。
「それでも、婚姻はなかったことになるんですよね?」 彼女の問いに、俺は黙って頷くしかなかった。法律は優しくはない。
登記簿から逆算される愛の証明
皮肉なことに、登記簿には二人が同居していた履歴が残っていた。 住所変更、住宅ローンの連名、公共料金の名義。愛の証明は戸籍にはなく、登記簿に残っていた。
俺はそれを根拠に、損害賠償の請求を準備する。登記簿が語るものは、時に証言より雄弁だ。
元夫の偽装と裏事情
調査の結果、元夫には過去にも似たような女性がいた。 式だけ挙げて、届出はしない。名義も変えさせない。責任は取らずに自由だけ享受する。
「これは詐欺師の常套手段ですね」とサトウさんが言った。俺も頷くしかなかった。 あまりに巧妙で、あまりに卑怯だった。
すべては一通の受理証明で
結局、役所に婚姻届の受理証明は存在しなかった。 だが、そこに「なかった」記録こそが、彼の嘘を証明してくれた。
婚姻届を出さなかった理由は明白だった。彼にとって、それが都合がよかったからだ。
婚姻届が届かなかった理由
「出すと言って、出さなかった」 たったそれだけの行為が、一人の人生を変えてしまった。
彼女は、ようやく少し笑った。「これで、前に進めます」 その笑顔が、せめてもの救いだった。
サトウさんの見抜いたトリック
「最初から出してないって、すぐわかりましたよ。だって、結婚指輪のサイズ合ってないって文句言ってましたもん」 「え、そこ?」
俺は思わず吹き出した。やれやれ、、、最後に一番鋭いのは、やっぱり彼女だった。
結末と静かな別れ
事件は静かに終わった。彼女は旧姓のまま、荷物をまとめてこの町を去っていった。
そして俺は今日もまた、謄本と登記簿と格闘する。 たまには婚姻届がちゃんと出された話も、来てくれたらいいのに。