静かな依頼人
その日、事務所の時計が午後三時を指したとき、ドアが軋む音とともに一人の中年男性が姿を現した。黒いスーツに無言のまなざし、何かを訴えるような目だった。
「抵当権のことで……ちょっと確認していただきたいことがありまして」と彼は言った。目を伏せながら、数枚の登記簿謄本と書類を差し出してきた。
俺は、書類を手に取り、久しぶりの静かな依頼に胸をなでおろした。だが、サトウさんはすでに眉をひそめていた。
午後三時の来訪者
依頼人の名字は「マツノ」。どこにでもいる名字だったが、どこかで聞いたような気もした。彼は淡々と語りながらも、第三順位の抵当権に関して「どうしても不安がある」と繰り返した。
普通なら第一、第二順位で貸し手は満足する。だが、この第三順位だけがどうもおかしい。登記の内容も、債権額も、妙に整いすぎていた。
サトウさんが小声で「この書類、妙に新しいです」と俺に囁いた。俺はうっかり飲みかけていたコーヒーをこぼしそうになった。
登記簿の違和感
登記簿を精査してみると、第一と第二の抵当権者は旧知の金融機関で問題なかった。登記日付、受付番号、担保設定の内容も特に異常はなかった。
だが第三順位だけは、異質だった。設定者の署名が簡略化されすぎており、印影もぼやけている。なにより、金融機関の名前に見覚えがない。
「これ、存在しない会社かもしれませんね」とサトウさんがパソコンを叩きながら言った。俺はため息をついて椅子に沈み込んだ。
第一と第二は確認済み
過去の謄本を見比べても、第一と第二はずっと同じ会社が保有していた。変動もなく、継続的な担保だった。
だが第三順位は、ある年を境に突如として現れていた。登記日付は平成十九年。十年以上前だ。
「それなのに、こんなに書類が新しいのは変ですね」とサトウさん。まるでコナン君が蘭ねえちゃんの背後から正体を明かすような、冷静な指摘だった。
シンドウのうっかりとサトウの冷静
俺はすぐに書類の束を机の上に散らかし始めたが、途中で登記申請書をインクで汚してしまい、再確認に時間を取られた。
「やれやれ、、、何で俺ってこうなんだろうな」とボヤくと、サトウさんは無表情で「分かってるなら最初から気をつけてください」と言い放った。
どうにもこの年下の事務員には頭が上がらない。彼女の言うとおり、もっと丁寧に進めるべきだった。
印鑑証明の罠
印鑑証明書の発行日が第三順位の登記日と一致していた。だが、その印鑑証明書の書式が現在のものと微妙に異なっていた。
「これ、偽造か古い書式の使い回しじゃないですか?」とサトウさん。確かに、区役所の書式改訂は平成二十年のはずだ。
つまりこの登記は、後から捏造された可能性がある。俺は目の前が少しずつ霧が晴れていくような気がした。
昔の謄本が語るもの
旧謄本を取り寄せた結果、平成十九年当時にその土地に第三順位抵当権は設定されていなかったことがわかった。
誰かが意図的に書類を挿げ替え、後から登記を改ざんした可能性がある。しかも登記官のミスも手伝って、表面上は成立してしまっていた。
「まるでルパンが手品で金庫の中身を入れ替えるみたいですね」とサトウさんが皮肉めいて笑った。
平成十九年の登記ミス
その年は、法務局で一斉にシステム移行があったタイミングでもあった。登記情報の移行中に混乱があり、実際に記載ミスも多発していた。
「やるならその年がベストだったでしょうね」とサトウさん。たしかに、登記官の印鑑すら一部が判読できない状態だった。
俺はまるでプロ野球のスコアブックの記録ミスみたいだな、と思った。こんな単純なところに盲点があったとは。
再調査と判明する事実
依頼人マツノが、実は過去に一度不動産詐欺で略式起訴されていたことが判明した。だが前科が消えていることで、俺も気づけなかった。
彼は自らの土地に第三順位抵当権を偽造することで、新たな借入を避ける「抑止力」として使っていたのだ。
「誰も気づかないと思ってたんでしょうね」とサトウさん。俺はしばらく、机の天板をじっと見つめた。
登記申請書の影武者
登記申請書に署名されていた司法書士名は、今はもう廃業している人物のものだった。その筆跡も偽物だった。
偽造登記を請け負った第三者が、過去の実在する司法書士の名を勝手に使っていたのだ。
「これ、ギリギリですね。あと一歩で完全犯罪でした」とサトウさん。コナンの黒幕もびっくりの見事な偽装だ。
サトウの推理と最後のひらめき
全ての書類を並べ直していたサトウさんが、ある一枚の謄本の余白に目を留めた。そこには、わずかに色が違うインクがにじんでいた。
「これ、他の紙から写った文字です」と彼女は言った。まるでキャッツアイがアートに込められたメッセージを読み解くようだった。
そのインクの文字が、過去の契約書の記述と一致したことで、すべての仕組まれた流れが露わになった。
書類の余白に隠された合図
「この人、ずっと同じボールペンで全部の書類書いてたんですよ」とサトウさんが言った。
確かに、古い契約書も新しい印鑑証明も、同じ太さ、同じインクだった。俺はようやく合点がいった。
そして、捜査に協力した法務局に全てを報告し、問題の登記は抹消へと進むことになった。
終わりなき紙の迷路にて
俺の仕事は、紙と印鑑と法律の迷路の中を歩き続けることだ。今回はうまくいったが、次はどうなるかわからない。
「やれやれ、、、また次の謎が来るのかね」と呟くと、サトウさんはすでに机に戻っていた。
そう、俺たちは終わらない紙の迷路の中にいる。だが、最後にはいつも、どこかに答えはあるのだ。
それでも明日も登記は続く
翌朝、また依頼者の電話が鳴った。「共有名義のことで少しご相談が……」。俺は椅子からゆっくり立ち上がった。
サトウさんはすでに新しいファイルを開きながら言った。「今日は焼きそばパン、買ってきてくださいね」。
俺の推理劇は終わらない。地味で面倒で、誰も称えてくれない舞台。でも、だからこそ、俺がやる価値があるのかもしれない。